人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

2019年 06月 13日 ( 1 )

鳥谷野館⑬

 「靈山略史(田島敬一郎)」で得た情報を元に、「霊山文庫(河内唯治郎)」で以下の記述を確認する。

 「同十七日顕家の別将春日侍従顕国陸奥の国椿舘を発して常陸に入る小田治久往きて之に合ふ(陸奥椿舘福島県〇南在渡利邑)義春笠間の囲みを出て来て之を拒絶す顕国進で南郡大枝に屯して小河郷及び大塚原に戦ひ之を敗る(畑田文書関城繹史)」

 「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策24~鳥屋野館」で、「伊達、信達二郡に伊達氏十六代の史跡を索ねて(仙臺 安部定橘)」の資料確認で、「信夫郡鳥屋城主安部対馬守重定」の情報にたどりついたことを記した。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239203763/
 「伊達秘鑑」に記される信夫郡鳥屋ノ城主安部対馬重定氏は、伊達政宗公に命じられ忍術を心得た者50人を選んで扶持を与えて「黒脛巾組」を組織したということになっているとのことだった。
 その「伊達秘鑑」を後で確認してみようと思っていたところだが、安部定橘氏が「伊達氏に関する岩磐資料」に具体的に紹介しているのをみつけた。

 その時期は「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策25~鳥屋野館②」で記したように、天正13年(1585年)の「人取橋の戦い」の頃。
 状況的には、伊達政宗の急激な躍進に、周辺諸国の大名は危機を感じて反伊達連合軍を結成することにかかわる。
 その連合軍は佐竹義重を中核に、蘆名盛重・石川昭光・白河義親・二階堂盛行・岩城常隆の武将で構成し、総勢三万の軍団だ。これに対して、伊達政宗氏側はわずか七千余の軍団ということで劣勢だ。
 実際に、伊達氏側では、鬼庭良直らの将兵を失い、政宗公も家臣片倉景綱氏を替玉にしりぞく。伊達家終焉の可能性があった。
 ところが、翌18日には、勝利間近のはずの連合軍がすべて撤退してしまったということだ。

 このことにかかわる後日談。
 連合軍の石川昭光氏は政宗の叔父で、白河義親も縁戚でもある。連合軍参加は、巨大な勢力の佐竹・蘆名氏の政宗公討伐の呼びかけに逆らえず参加していたということだ。
 連合軍はけっして一枚岩ではなく、その間隙を突けば崩壊するはずだとして、政宗公は黒脛巾組を反伊達連合軍の陣中に忍び込ませたという話だ。

 以下は、「伊達氏に関する岩磐資料」のこのことと鳥谷野城主にかかわる紹介部分。

 「政宗公嘗て安部対馬(信夫郡鳥屋城主対馬守重定)に命じ、今度の軍一大事あれば、公の謀略を以て細作を善する者五十人を募り、号して黒脛巾隊と為し忍びをして四方に散遺す。対馬に密々に謀を授けられ、柳原戸兵衛、世瀬蔵人等手下をまわし様々の流言を云觸し、反間を行うゆゑ三軍の疑ひ起し暫時の退散を達しめ、此後に興りて功ありと云ふ。(譜系)廿一日小浜に帰る(治家記録)」
by shingen1948 | 2019-06-13 10:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)