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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

2019年 06月 12日 ( 1 )

鳥谷野館⑫

 「鳥谷野館⑧」で、福島市鳥谷野の名主羽田家が北畠顕国の子孫とかかわるとの情報とのからみで確認していて、少なくとも南北朝時代の弁天山の椿舘主を北畠顕家の一族北畠(春日)顕国が椿館主だったと案内する資料名が見当たらないとしていたところだった。
 「靈山略史(田島敬一郎)」を眺めていて、次のようなこの事とかかわる記述を見つけた。

 「(延元2年)7月4日南党春日顕国、多田貞綱等下野小田城を囲む。桃井貞直等逆へ戦って之を卻(しりぞ)け、8日貞直、常陸関城を圍む。(大日本資料)下野、常陸は陸奥国衛の管國である。顕国は北畠氏の一族、信夫郡椿舘(渡利村)に居すと霊山文庫、義良親王霊山在御事蹟等の書に在る。椿舘の裏手に、丘陵の峰伝に伊達郡川俣に通じ、海道に達する山路の址を存している。信夫の細道と伝称す。櫻雲紀に7月顕国卿。東彌九郎兼胤、楠左近蔵人正家をして常陸を征せしむることある。顕国卿西上を策して、下野、常陸を平定しようとしたのであらう」

 地元誌の中では、この北畠顕国の子孫とかかわるとする鳥谷野の名主羽田氏が杉妻荘鳥谷野郷を領して鳥谷野館に住したという説が解説される。そのことについては「鳥谷野館⑦」でふれたが、地頭領主的な性格の館主だったということだった。
 天正19年(1591)に伊達氏が岩出山城に移り、信夫郡は蒲生公の領地となるのだが、この時に、鳥谷野館主だった羽田四郎太夫氏が退隠を命ぜられたということだった。
 25貫文の土地が認められて庄屋になったということだった。

 今回の地元誌の確認作業によって、その羽田宗家が前回整理した道筋沿いの杉ノ内集落にあるらしいということが分かった。
 鹿島神社拝殿建立の鳥谷野羽田喜三郎氏についていろいろ想像を働かせていたところだが、この羽田家とかかわるようだ。
 この羽田喜三郎氏が鳥屋野村名主であることは、天保7年6月御改鳥谷野村絵図の確認でわかった。そこに、名主羽田喜三郎、組頭治左衛門、組頭庄兵衛の名が記されていたのだ。
 「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策36~鹿島神社③」で推定していたことは、その通りだったということだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239243892/ 
 なお、寛政年の大蔵寺千手観音奥の院と称する多宝塔建立にかかわって、その供料所として椿舘山林の提供もしているらしいとのことのことだ。

 ここでふれていた古書情報で得た羽田暁雲斎という弘化元年(1844) 岩代国信夫郡杉妻村鳥谷野生まれの華道家の本名が羽田喜三郎という方についてだが、この方は、宗家の三代羽田藤四郎督康の次男卯之松氏が文化9年に宮畑ケ丘に別家された方の家系との関りある方らしい。
by shingen1948 | 2019-06-12 10:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)