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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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2019年 04月 05日 ( 1 )

 前回、福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見え方について整理した。「伊達、信達二郡に伊達氏十六代の史跡を索ねて(仙臺 安部定橘)」をその資料とした。
 この資料の本文で今回の散策とかかわるのは前回整理した部分だが、気になるのは付け加えられたその末尾だ。
 「昭和12年8月盛夏、仙台市木下萩迺舎北窓下に於いて信夫郡鳥屋城主安部対馬守重定十四代の孫安部定橘記」と記されるのだ。

 ここからは、この文章を書いた著者の肩書を「信夫郡鳥屋城主安部対馬守重定十四代の孫」としたいということが読み取れる。
 ここに見えるその「信夫郡鳥屋城」だが、確認をしていくと、どうも鳥屋野館とかかわるらしいのだ。
a0087378_17121035.jpg
 その鳥谷野城主は、安部対馬守安定という方のようだ。
 この資料では、それを「安部対馬守重定」と記す。
 ご子息であるとする方がこれを誤るはずもない。そこにはある意図があるようなのだ。それを想像する。

 確認していくと、安部対馬守安定という方が「信夫郡鳥屋ノ城主安部対馬重定」と記されるのは、「伊達秘鑑」という伊達氏を中心とした奥羽の軍記らしいことが分かる。
 そこに記される信夫郡鳥屋ノ城主安部対馬重定氏は、伊達政宗公に命じられ忍術を心得た者50人を選んで扶持を与えて「黒脛巾組」を組織したということになっている。
 恐らく、この「黒脛巾組」を組織した信夫郡鳥屋ノ城主の子孫であることを主張したかったのだろうと想像する。

 ただ、この「黒脛巾組」の呼称は江戸期以降の伊達家関係資料に登場するが、同時代資料では確認でないとのことで、その信憑性が今一つというむきもあるようだ。
 それでも、伊達氏が修験者を使った外交工作や諜報を行っていた可能性も否定はできず、そういった活動との関連性がないともいいきれないという事でもあるようだ。
by shingen1948 | 2019-04-05 17:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)