地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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2018年 08月 18日 ( 1 )

 西東塾の俗称は「さつま様」だったという「金谷川の教育」の情報がある。
 この左端の石碑は、その事とかかわる墓碑なのだはないかと想像する。
a0087378_17394617.jpg 前面に、〇「祠官薩摩守行廣墓」が読め、右面に「寛政7年」と数文字が2行にわたって刻まれているのが分かる。
 寛政7年(1795)に亡くなられた神職であった薩摩守行廣氏の墓碑であろうことが分かる。
 そこに「薩摩守」とあることと、西東塾の俗称は「さつま様」だったこととがかかわるのだろうということが想像できる。

 その「薩摩守」について確認をする。

 まずは、江戸時代の官名の名乗りとということからの推測。
 江戸時代の官名の名乗りは、有資格者の通称であって役職とはかかわらないようだ。ただ、
その官途名や受領名を名乗れるのは武家の中でも諸太夫以上とされているということではあるようだ。
 八丁目宿場にあっては、支配者層に属する家というにとどまらず、その中でも名乗りの有資格者であるという格付けをも意識されるということであろうか。
 ここまでは〇〇守という一般的な官職名の名乗りのことだ。

 この「薩摩守」というは、特殊な官職名であって、松平薩摩守である島津家の独占ということで、更にグレードが高いということで一目置かれていたということになるのだろうことが想像される。

 次に、ここが江戸時代のこの年代は二本松藩の支配下にあった事も考慮にいれて確認してみる。ただ、ここからの想像は曖昧さも多くなる。
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by shingen1948 | 2018-08-18 17:41 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)