地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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2018年 07月 16日 ( 1 )

池袋駅西口⑩

 「成蹊実務学校」平面図の寄宿舎と成蹊池の部分を拡大して表示する。
a0087378_615214.jpg 「成蹊実務学校」平面図では、成蹊中学の寄宿舎南側の農園の南東隅に成蹊池が描かれている。これが、今回散歩の出発点とした丸池跡とかかわるもの思われる。
 
 「成蹊会」の成蹊探訪32成蹊学園発祥の碑のページで、「元池袋史跡公園」に建つ「池袋地名ゆかりの池」の碑にある地名由来の池は「成蹊池」と呼ばれた学園敷地内の池のことと解説しているので、間違いないようだ。
 
 寄宿舎の後方や池の南東に広がる農園の水源として想像を膨らます。しかし、この池はプール代わりに水泳にも使われたとも……。
 「青春彷徨-カメラと共に」のページで、『成蹊実務学校教育の思い出【桃蔭会川瀬一馬編(共立社印刷所昭和56年2月21日)】』にその様子が記されるという情報をみる。
 https://honcho53.exblog.jp/11747269/

 夏の初めに三日がかりで水を入れ替えて、きれいにすることから楽しみの行事だったという。
 人海戦術で池の周囲からバケツで一斉に掻き出したり、大きな桶に太い綱を三つ又に掛けて大勢で引いて掻き出したりして半日がかりで清掃をするのだそうだ。
 綺麗になった池は、二日程度で一杯になるという。
 そこでひと夏、水泳を楽しんだとのことだ。

 気になっている事の主は丸池だが、ここで村界も気になってくる。この辺りに村界とすべきものがあったはずだが、それが何だったかということだ。

 成蹊池付近を見渡すと、池から流れ出す川に東側から二本の川筋が見える。恐らく、他の水源地から流れ出た小さな流れの川筋なのだろうと思う。
 この低地も村界になり得るものだろうと想像する。しかし、その川筋が成蹊池から流れ出た川筋と合流した地点から川筋は南に向かうのだ。そこが地形的に谷筋になっているのだとすれば、村界線はそちらを走るはずだが、実際は、池の北側を走っているようなのだ。

 とりあえず、成蹊中学校寄宿舎裏の農地―花畑―中学校農園―成蹊中学あたりを走るような想像をしてみる。
 そして、その視点で「成蹊実務学校」創設者中村春二氏が描いたとされる絵を眺め直してみる。

 「この辺り凡て麦畑とある」と記されているメモがある。「この辺り」とは、校地を含む全体を指しているのだろうと思う。
 更に、学校の奥の木々並木を指して、「桃季にほふ……」と表現するメモもある。

 この事から、その麦畑の台地の縁に沿って桃の木が植えられていたのだろう事が想像できる。師範学校の塀が描かれる学校の手前の風景にも同じような並木の痕跡が描かれている。
 この並木のラインが、この辺りの微視的な地形変化のラインになって居るのだろうことが想像できる。
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by shingen1948 | 2018-07-16 10:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)