地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

2018年 02月 27日 ( 1 )

 熊阪氏から半沢氏に継がれた書庫「曵尾堂」文庫は敗戦後まで維持されたが、再び不幸にも1950年に散佚してしまう。
 「保原町史(第五巻)」によると、不幸中の幸いというか、明治29年10月調査、その大正初年の写しの目録が残されたとのことだ。
 この辺りの山形市出羽地区の豪農半沢久次郎氏情報を拾う。

 戦後(S22〜25)行われた農地改革により、半沢家は不在地主として全所有地を国が強制買収して小作人に売り渡したので旧小作農家の経済状態は著しく改善されたとして、小作農の方々の立場で語られるようだ。
 これによって、半沢家は東京に移住することになった。この時に、山形県は、その邸宅を買い上げたという。
 山形県が買い上げた半沢邸は、「出羽寮」との名称で県庁来庁者の宿泊施設などにも利用されたとのことだ。ただ、書庫「曵尾堂」文庫がどうなったかという情報は見当たらない。少なくとも、公的機関が、書庫「曵尾堂」文庫に着目した形跡はなさそうだ。
 昭和30年代の後半に、その半沢邸の建物も一部解体されて「皿屋食品会社」の工場敷地に変更されたようだ。
 昭和40年代、経営者が変わり「東北缶詰株式会社」として業務が開始され、平成になって、社
名を「東北ビバリッジ」と改称して現在に至っているとのことだった。
 したがって、山形市漆山 元出羽寮東北缶詰株式会社庭園の「摩遊はきを をもかけにして紅の花」の芭蕉句碑は、半沢邸の自宅に建立されたものと解釈で矛盾はなさそうだ。

 先に、半沢氏に継がれた書庫「曵尾堂」文庫は有名だとしたが、地元ではその情報は拾えない。
 ただ、「山形県立図書館」も「山形県立博物館」も「その存在は研究者の間では知られていた」としているので、有名なのかなと思ったということだ。
 気になるのは、どちらの情報でも半沢氏に継がれた書庫「曵尾堂」文庫は「仙台方面から多くの図書を購入して、これを一般に閲覧させたもの」としている。そして、「曵尾堂」蔵書印は、全て半沢氏が押印したものとする前提での情報が流されているということだ。
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by shingen1948 | 2018-02-27 09:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)