-
[ 2017-11 -08 16:59 ]
2017年 11月 08日 ( 1 )

神奈川県川崎市の民家園に移築された建物は、間口約11m奥行約17m平面積48坪の旧鈴木家住宅が建っていたという事のようだ。
この情報と照らし合わせると、隣の黄色い建物も合わせた部分が「赤浦屋」だったと想像される。
このアングルと照らし合わせるのには、川崎市教育委員会のページの「旧鈴木家住宅」の写真がイメージしやすいと思う。
http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000287.html
鈴木家間取りとも照らし合わせると、建物右手の板で覆われた部分がマヤ(馬屋) の部分のようだ。
ここは、通り土間になっていて、ここに横隊に14頭までつなぎ泊めることができたそうだ。それ以上になると、奥の空き地の馬屋につなぐことになったとのことだ。
この土間の奥はニワになっていて、小竈と豆などの馬の餌を煮炊きする大竈と流しがあったようだ。
手前の戸が開いている3間が、宿のフロントにあたるミセの部分のようだ。
そのミセの西手の戸の閉まっている部分が8畳の「上段の間」のようだ。その西側に天袋付「床の間」があるようだ。
この奥に8畳の「次の間」があり、その西側に客用の便所がついている。ここは、裕福な馬主や騎馬旅行の武士が宿泊する部屋になるそうだ。
ミセの奥は生活空間のようで、ナンド・チャノマ・カッテが続く。カッテには囲炉裏があるようだ。
馬方が宿泊するのは二階なそうで、ミセの後ろの土間側から階段で二階に上がることになるようだ。
八丁目宿の馬宿について川崎市民家園の資料では、次のような解説がなされているようだ。
八丁目宿は、福島と二本松の間の宿場で、この馬宿には、白河と本宮で年2回開かれていた馬市や、江戸藪馬という盛岡藩や麻生十番という仙台藩の競りに出す為、遠く南部(岩手)や仙台から馬を連れた馬方が、馬主と共に奥州街道を上る時に宿泊したとのことだ。
馬方1人で馬7頭を単位に引き連れて道中に出るのだそうだが、これを「1はんな」というのだそうだ。
この「赤浦屋」では、14頭まで通り土間にそってつなぎ泊められたということは、二人の馬方で「2はんな」が基準で、それ以上でも奥の空き地の馬屋で対応したということなのだろうと思う。
ここは、北から馬を連れて白河方面に向かう最後の宿であったと言われているそうだ。