福島の建築 21ー2
2010年 02月 17日
「森合郷土史」によると、ここに飲料水を確保することに森合村がかかわっているらしい。新道を敷設して、監獄署がその管理にも関わったということだ。監獄署から福高の後ろを通り、県立工業高校の後ろを通っている道が、その新道らしい。
水源地まで西にまっすぐ伸びている。この水路を引くという仕事が、監獄署としては、大仕事だったらしい事が推測される。
「森合郷土史」に、三か所の水道元開発と維持管理など、住民がその恩恵を受けるべく条件交渉したという記述がある。
庭坂に建設された湯町の浴場は、一般の人々には使用させなかったと聞く。条件交渉の成功は、その後の福島の人々の生活の近代化に結び付くという意味で、重要なことだったと思われる。
この新道の先に、水路が続く。これが、貯水池に続いている。この水路が昔から使われている水路なのか、新たに整備された水路なのかは確かめていない。ただ、趣のある風景の一つになっている。
この貯水池から、福島監獄署まで水路が引かれたのだろうか。
ここが、貯水池につながる水源の一つで、この脇に水神が鎮座する。中心的な役割を担う水源なのだろうと思う。
この辺りは、福島の水環境というくくりで、「『吾妻の里』泉地区で見つけた清水と水神様」として、先に整理している。
その時に、水神脇の案内板から、刑務所と関わるという記載は見つけている。しかし、これが信夫山脇にあった監獄署とかかわることが分かっていない。ましてや、これが三島通庸と関わり、そこに水を引が引かれるという事が、文明開化を象徴する自慢の西洋式建物維持に必要不可欠のものであったという見方もできていなかった。
※ 資料によって呼称がまちまちなので、いくつかの資料をもとにその沿革を整理しておく。
江戸・藩政期 福島藩が信夫郡腰浜村に牢屋敷設置
明治 4年(1871) 信夫郡福島町南裏に移転
明治10年(1877) 福島監獄から福島監獄署に改称。
明治15年(1882) 県から監獄署の移転を政府に上申。移転先は信夫山麓御山町。獄舎は3年で完成。明治17年оr明治18年御山町に移転。
明治34年(1901) 福島監獄と改称。
大正11年(1922) 官制改正で福島刑務所に改称。
昭和25年(1950) 福島刑務所として独立。
昭和30年(1960) 現在地に移転。
平成17年(2005) 新改築。支所設置。