福島の建築 ⑬
2010年 02月 01日
まずは、山神神社の案内板だ。位置に関する情報を整理する。
創設は、明治25年(1892)、現橋本花園付近に創立。一般的に土管場と称されていた。ここに、フィールドワークの資料を重ねる。
その後、明治37年に山神の地内に業務拡張のために移転した。
四代目で、事業不振売却。
富山市大平産業㈱の福島工場で再発足。昭和41年に工場閉鎖。
一つは、庭坂―福島線と東北自動車道の交差する北西に「煉瓦工場跡」がプロットされている。
もう一点、旧米沢街道と、先の庭坂―福島線の間で、旧米沢街道寄りの高速道路西側にプロットされていて、そこに煉瓦工場の説明がある。
ここを確認した時には、こちらの庭坂―福島線沿いが創業と思っていた。しかし、ここが山神地内だ。こちらが明治37年に山神の地内に業務拡張のために移転したあたりということになる。ただし、正確な位置は、今のところ分からない。
ここで、地域の方に声をかければ直ぐに分かりそう。
ここは、野田村道路元標があったはずの5交差路のところだか、この庭坂―福島線は、ここからまっすぐ西に伸びる。例の県令三島通庸が、明治15年に開削した近代初頭の典型とされる道だ。
現地を歩くと、業務拡張の概念には、この新道沿いということが含まれているということが分かる。
こちらは、花園というイメージで、プロットされていた位置近くの花苗が栽培されていた場所を重ねて、今のところ勝手に創業地と思っているだけ。
ちなみに、その脇を走る奥羽本線は、「明治32年(1899)開通だが、明治18年10月山形県令、県民の要望に押され奥羽線敷設計画、工部卿これを拒否、明治32年まで涙をのむ」とある。
これは、その奥羽本線庭坂駅の煉瓦の建物。煉瓦造りということで、散歩の途中で立ち寄ったので写したが、勝手にこれもかかわりありそうと思っているだけ。
木造だった駅舎は、平成に入って改築されたようだが、駅全体としては、どこか懐かしい雰囲気がある。
建物の関連では、現福島駅舎ができる前に取り壊された福島駅舎は、この明治32年(1899)奥羽線開通によって、全面改築された駅舎だったというつながりになる。
明治の新聞記事を確認してみると、福島駅の改築計画が提出されたり、延期になったりして混乱している様子がうかがえる。最終的には、旧舎を全部取り壊し、全面改築になったようだ。
詰めは甘いが、とりあえず整理しておく。
PDFファイルですのでご注意ください。
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/3231/1/1-5.pdf
「書」の観点から石碑を論じているのですが、
砂子、東根堰の碑も含まれていて中々興味深い内容になってます。
追伸
先日、東根堰の取水口を見てきました。
ちゃんと水天宮の石碑もありました。
「福島煉瓦業の碑」が、岩谷観音にあるというので、何度か探したのですが、見つからないでいました。
碑の裏まで見ないとだめなんですね。まだまだ見方が雑なんだと反省しました。
東根堰の取水口に行けましたか。すごいの一言。