地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

砂子堰~取水口

 宮脇遺跡現地説明会の帰りに、砂子堰の現在の取り水口に立ち寄った。
 懸田城は、伊達氏側の興味だが、砂子堰は、上杉氏の仕事だ。
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 ここ伊達郡東根上郷は、慶長6年(1601)に成立した米沢藩の県北の伊達・信夫両郡は寛文4年(1664)まで米沢藩領だ。
 砂子堰は、その家臣渡辺新左ヱ門、堀江輿五右衛門が、広瀬川から取水した疏水だ。難工事で、慶長3年に工事に着手したが、取入口の度重なる堰堤の変更を経て、慶長9年に完成する。
 後の世まで「伊達のさかさ水」と言われた隧道2ケ所、樋口を大小172ケ所埋設し総延長16kmの用水路で、15ケ村710余町歩の灌漑をする。


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 現在の取水口から川下に少し行くと、「新砂子堰隧道」が埋まっている。


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 旧取水口は、この取水口から川下に200mくらい行ったところと聞く。
 そこには、砂子堰の旧取水口の杭跡らしい痕跡が認められるという。
 岩に穴を掘り、柱や杭を立て、板や石を使って水を堰止めるのだか、その岩の穴が確認できるらしい。
 更にそこから北に10m位のところには、川のすぐ脇の山裾に掘られたトンネルがあるらしいが、埋まりかけているともいう。上部からの土砂の崩落が常に心配されるところと聞く。
 本当は、その辺りまで確認してから整理したかったが、多分案内なしでは確認は難しいだろうし、その当てもない。とりあえず、現時点での確認を整理しておくことにする。

 砂子堰の開削については、先に保原の仙林寺に行ったときに、「渡辺新左衛門墓所(仙林寺)」で、以下のような概要にふれて整理した。

 県資料情報では、梁川町史をもとに、慶長5年(1600)、信達四郡役として東根郷を差配していた堀江与五右衛門・渡部新左衛門が関波村南部に堰口を設け、大門・細谷(梁川町)から金原田・上保原(保原町)に至る水路を開削したと伝えるとしている。
 この二人は、上杉氏の大肝いりという身分らしい。
 米沢藩は、村々を束ねる大肝煎(信達4郡役)に依拠しての統治していた。その大肝煎は鈴木源左衛門(信夫郡、福島)・佐藤新右衛門(伊達郡西根郷、桑折)・渡部新左衛門(同郡東根上郷、下保原)・堀江与五右衛門(同郡東根下郷、梁川)・高橋清左衛門(同郡小手郷、秋山)の5人だ。

 なお、この中の佐藤新右衛門氏は、西根堰の開発にかかわる。
by shingen1948 | 2009-12-30 05:11 | ◎ 水 | Comments(0)