地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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懸田城⑥~天地人の時②

 今回懸田城に立ち寄ったのは、伊達政宗側の興味だが、対抗する上杉氏の概要を付け加えておく。
 この辺りの上杉軍の伊達政宗への備えとしては、梁川城や保原城の散策で整理したように、白石城主甘粕2万石、梁川城主須田氏2万石、保原城主大石氏5千500石で固めるのだが、伊達氏と同じように領民の組織も固めている。
 その一つが、大枝村の佐藤新右衛門一族の任用など、地元の有力者を活用したことだが、その他に、小手郷の有力百姓を騎馬武者に任用した小手63騎の結成ということもあったという。
 今回訪ねたこの懸田城攻めでは、7騎が任用開始され出撃しているという。6月2日の梁川籠城戦では63騎が籠城しているらしい。
 梁川では、慶長6年4月10日に、須田長義から250~100石の認状を下賜されて陣払いされているとのことだ。

 この懸田城での戦闘だけをみれば、伊達軍が敗れたということのようだが、上杉軍を福島・梁川の上杉勢を釘づけにして動けないようにしておくという効果が大きかったようだ。
 この伊達地方では、そのために川俣あたりを中心に別な動きもあったようだ。
 相馬駒ヶ峯城主桜田玄蕃基親が、河股城を攻落し飯野、秋山、大波、小島を焼払って大舘に陣をとる。そして、24日には河股城に引篭って戦って、駒ヶ峯城に帰って陽動作戦を展開しているらしい。多分、ここでも農民を扇動して籠城させているのだろう。
 確認ができていないが、ここでいう大舘が、先に散策した立子山自然の家あたりと聞く。
 これらは、10月の松川合戦へつながり、伊達政宗としては白石城を手中に収めることができたという結果とも結びついてくるようだ。

 この地区では、これらを昔の話ということで割り切れないところもあるようだ。
 昨年、「霊山町『宮脇遺跡』発掘調査説明会⑥~霊山史談②」では、伊達氏と近くの邑の家臣団について整理したところだが、この近郷の人々は、意識しているか意識していないかという事にかかわらず、生活にこの時代の歴史の影響を受けているということがあるようだ。
 
by shingen1948 | 2009-12-29 05:16 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)