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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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懸田城⑤~天地人の時

 懸田氏や懸田御前の悲劇について整理したが、これは、天文の乱と懸田城とかかわって、起きたことだ。これに先に整理した首塚の話と関連させておくべきだろうか。

 いろいろ確認しているうちに、今回この懸田城に立ち寄りたかったことの整理が遅くなった。
 この懸田城に立ち寄りたかったのは、天地人の時の頃の話だった。
 伊達政宗の旧地奪還の動きに呼応して、村民が、武装してこの懸田城で蜂起したという話だ。結果的には、上杉勢に鎮圧されたのだが、その現場である懸田城を、体感を通して知りたかった。

 伊達市の歴史文化講演会「北の関ヶ原~上杉氏と信達地方」でいただいた資料で、この動きの詳細が読める。「伊達郡中・南部の戦場と民衆(高橋)」の講話資料だ。
 それによると、「大石と懸田城の戦い」といわる出来事だ。
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 これは、懸田城本丸から南西方向を見ている写真だが、ここに政宗の動きに呼応して民百姓がここに籠る。
 「慶長5年6月25日に、金山城主中島宗求の軍勢が笹ノ森峠から大石を経て懸田城に入る」
 この時、数千人といわれる近隣の百姓も峰起して懸田城に入っているようなのだ。資料から、城内には建物があって大石が転がせるように整備されていたらしいということだ。

 「次の日の26日には、梁川城、福島城の上杉氏が出撃し、懸田城は落城する」
 大河ドラマでは、愛のために戦う上杉軍だが、現実のこの戦いでは城内の男女は無差別に撫切(斬殺)される。
 安達地区では、この撫切(斬殺)で伊達政宗の残忍さが強調されるが、ここ霊山地区では、上杉氏の撫切(斬殺)の残忍さが強調されることはないようだ。
 ここで敗れた金山城主中島氏が、先に整理したように懸田氏を裏切り懸田御前の悲劇と関わる方というのも影響しているのだろうかと考えるが、そんなに単純ではなさそうだ。
 実際には、この撫切(斬殺)が行われる背景は、籠城する侍が農民を隠れ蓑にするという側面もあるようだ。懸田城の場合、籠城したのは1000人ということだ。近在の農民の数を遥かに超す人々が籠城しているということであり、混じった侍だけを相手にするということはできないのかもしれない。単純に残忍さということで割り切れるということではなさそうだということが分かっているからなのかもしれない。
 なお、資料によると、年月不明だが、伊達方の草が大石から小国入ったり、大石で小競り合いがあったりしたということもあったということのようだ。

 この村民が武装してこの懸田城で蜂起したという事について、名懸衆(なかけしゅう)と野武士についての概念がないと分かりづらい。

 伊達氏の名懸衆は、在郷の特別な待遇の者で、1 0代氏宗または1 3代尚宗のときに制度化された身分といわれる。農業に従事しながら合戦時に伊達家のもとに馳せ参じる伊達家直属の家士たちである。
 この組織が、伊達氏が米沢に移った後も、存在し続けたという事だ。
 そのことが分かる資料としては、天正1 7年4月に書上げられた「伊達天正日記(「野臥日記」)」があるとのことだ。これは伊達政宗が相馬攻めに先立って刈田郡・伊達郡のうちの動員可能な野武士(農民)を調査したものらしい。
 郷名毎に領主(伊達家臣)の名前と共に、通常農業に従事している者たちで、郷名ごとに出動可能な野武士たち全員が名前を書き上げられているという。野武士たちは特に優れた者は「上」と記載され、また年寄は「老」などと記載されているという。
 「伊達氏歴史ガイドブック」では、具体的に大石郷の例を挙げている。
 それによると、名懸衆が1 7名、野武士が1 8 6名の組織になるという。苗字別では菅野や大橋が多く、その身分は、本百姓だけでなく、本百姓に付属した農民である名子や下人も含んだ組織だったという事だ。
by shingen1948 | 2009-12-28 06:12 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)