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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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懸田城④~懸田氏

 資料を整理していたら、懸田城の図が出てきた。
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 十数年前の話だが、公民館の一つの活動として「福島の歴史学習会」というのがあって、それに参加させていただいた時に頂いたものだ。プログラムを確認すると、「中世霊山城をめぐる争乱」という菅野氏の講話資料のようだ。

 公園案内図と比べると、第2広場と第4広場が、水の手あたりで、舘跡・根子屋舘の地名がその近くに見える。
 「山形・宮城・福島の城郭」では、山頂の本丸は詰めの城ということで、平時の居館は分からないとしているが、大手などの情報も含めて一周道路から山に入るあたりの平場辺りに勝手に想定したくなる。

 地元の方にとって気になるのは、霊山城やそれをめぐる争乱そのものよりも、地名にもなっている懸田氏とのかかわり合いだろうか。伊達市観光紹介サイトの説明は、そんな事情を考慮して、国人領主であることを大切にして説明しているように思える。
「一時期伊達氏に従属しながらも独立した領主権をもっていたとされます」と記す。

 それ以上の説明はない。しかし、「山形・宮城・福島の城郭」では、その根拠が確認できる。
 その一つに、足利将軍から直接の指図を受けているらしいということがある。
 寛正5年(1464)将軍足利義政は、足利成氏討伐のため、懸田次郎宛に御内書を降している。それによれば「懸田氏は、伊達の手に属して戦功を抜きん出るように」とあるという。将軍から直接指示が受けられるという地位だったということだ。
 その二が、懸田あたりの郷村が、伊達氏の領地になっていないという事もあるらしい。
 天文7年(1538)伊達稙宗が領国の郷村から徴収すべき段銭額を記載した『伊達段銭古帳』には、懸田・山戸田をはじめとする小手北部の郷村名は記載されていないという。
 懸田・山戸田をはじめとする小手北部の郷村は、懸田氏が治めていたと見るべきなのだろうか。
 これらのことから懸田氏は、独自にこの地域を支配しながら伊達氏とかかわっていたと推測しているということになるようだ。他所からの勢力者と対等に地元の領主が力をつけて、勢力を拡大していったということでの誇りなのだろう。

 先に整理したように、懸田氏本家は滅亡するのだが、血筋はつながるようだ。このことも、地元では皆が知っているという事なのか、あまりふれられることはない。
 天文22年の騒動の時、懸田氏の二男の藤田晴親が、相馬顕胤のもとに逃れているらしい。今風に考えれば、悲劇の懸田御前にとっては、夫と長子を失う中、嬉しかったのではないかと想像する。
 天正4年(1576)には、藤田晴親の嫡子宗元と二男宗和が米沢で、伊達輝宗に帰参を願い出て許されているという。
 地元に戻った二人は、懸田・藤田の両家を立てて懸田伊達一族の班に列したという。後に、宗元は黒木氏を称するらしい。

 懸田城そのものも、完全に廃城になったという事ではないらしい。
 永禄9年(1566)「伊達輝宗知行充行状」には刈田郡の地頭中目長政に懸田三か村と懸田要害が与えられていることが記されているらしい。
by shingen1948 | 2009-12-27 05:12 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)