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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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懸田城②~懸田御前

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 これは、公園化された茶臼山公園の第3広場近くに建つ懸田御前観音堂だ。各広場に建つ案内板の表示でそれと分かる。

 伊達市観光の紹介に懸田御前の悲話がある。そこでは、懸田氏が国人領主であることにこだわって説明した上で、伊達氏とのかかわりを説明する。そして、そのかかわりで懸田御前の悲話についてふれる。
 掛田の茶臼山城は南北朝時代や室町時代に懸田氏が居城しました。懸田城ともいわれています。懸田氏は伊達氏と縁戚で、一時期伊達氏に従属しながらも独立した領主権をもっていたとされます。天文年間初期のころは宮城県南部の名取郡や山形県東部の北条庄などを領しる大名に成長していました。このころ伊達氏と不和となり、家臣の中島氏にも裏切られ、滅亡しました。中島伊勢は伊達家に迎え入れられ、金山城主となりました。その子は政宗の家臣として活躍しています。最後の懸田城主懸田俊宗の夫人は伊達稙宗の娘で、懸田御前と呼ばれました。美貌の方らしく中島氏が横恋慕して金山城へ連れ去ったといわれています。

 天文の乱がどうにか収まるあたりの出来事だ。その背景は説明されていないが、次のようなことだろう。
 天文の乱終結の和議条件が、西山城、懸田城の廃城で、懸田俊宗としては納得できない。それで、懸田俊宗は、天文22年に再び晴宗にそむいて挙兵するのだ。しかし、終結に向けて動き出している時代背景の中で、懸田氏に勝機はない。
 戦いは敗れ、俊宗・義宗の親子は捕らえられて処刑され、懸田氏は滅ぶという運命だ。

 このことだけでも、懸田御前の悲話だと思うが、その上でということで、説明の悲話が深まる。

 丸森の鏡井戸にかかわる懸田御前の伝説というのもあるらしい。
 昔、丸森の里の殿様がある戦争に勝った時に、敵の妻である懸田御前という女性をこの里に連れてきた。御前は、大変きれいな方で、殿さまは何とか側室にしようとしたが、拒否するので御前の二人の娘を殺害した。そのことを悲しんだ御前が、鏡井戸に身を投じたという。

 情報を重ね合わせてみると、「丸森の里の殿様」は金山城の中島氏で、敵の妻ということだが、その敵というのは主人であった懸田城主懸田俊宗氏だ。中島氏は、懸田氏を裏切ることで伊達氏の家臣の地位を得たという事だ。
 懸田御前は、伊達稙宗の娘であるという事だ。
 金山城の中島氏の立場になれば、懸田御前はこれから自分が仕える伊達氏とかかわりある方であることで、どう扱ったらいいのかという事での戸惑いがあったのでないかとも思う。

 先に整理している時には気づかなかったが、次の天文の乱で懸田氏がとる行動の意味も懸田御前とのかかわりだ。
 天文11年(1542)、伊達稙宗、晴宗父子菅野内紛「天文の乱」が起るや、懸田俊宗は岳父稙宗に味方して参戦、翌12年には稙宗を懸田城に迎え相馬顕胤らと共に、包囲した晴宗方と激しい戦いを展開、城を守り抜いた。

 掛田御前について、他に次のような二つの伝説を目にした。この辺りでは身近な伝説の方らしいので、もっとありそうだ。
 ○ 川俣の「経塚山梅松寺」の創設は、天正4年(1576)3月15日で、伊達俊宗の一子、梅松丸15歳の時、東根川に投死したので、經塚山一番地に梅松丸の母懸田御前の要請で、開山廓蓮社良然上人を請うて、創立した。
 ○ 保原城に、中島氏と懸田御前が在城したという言い伝えがある。
by shingen1948 | 2009-12-25 06:19 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)