地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

懸田城

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 宮脇遺跡現地説明会の前に、懸田城に立ち寄った。
 前回の現地説明会の機会にも探したが見つからなかったところだ。行きたいと思ったら、まずはじめは資料なしで、自らの勘で探すというということでしくじったのだ。
 今回は先に地図を見て、おおよその見当をつけておいた。

 茶臼の里霊山総合福祉センターを目印にすると、その脇道を北に進んで突き当たったところが、この城の入口になる。
 入口に、大手橋公園道路改修記念碑があったので、その橋を確認すると、この橋の向こう側の景色に見覚えがある。この道を確かめると、掛田の街中を走る街道が鉤型になっている所から入る道だ。後で確かめると、こちらの道が大手道ということのようだった。


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 公園の入口には、公園の案内図と懸田城についての説明板も建っている。その説明では、懸田氏の由緒と伊達氏とのかかわりについて解説する。
 伊達氏とのかかわりでは、この地では、「南北朝時代」と「天文の乱」のあたりが説明の中心となる。
 懸田城
 懸田城の築城者や築城の時期は詳らかでない。
 平地との比高125mに達する急峻な自然地形を利用した山城で、山頂主郭の下に帯郭を巡らし、西下副郭部の先端から小郭を階段状に張り出した梯郭式の堅固な縄張りである。
 建武2年(1335)源義家の後裔高松近江守定隆が、北畠顕家の命によって杉野目郷高松城から懸田城に移り懸田氏を称したという。霊山城や藤田城と共に南朝方の拠点になったものと思われる。
 下って天文11年(1542)、伊達稙宗、晴宗父子菅野内紛「天文の乱」が起るや、懸田俊宗は岳父稙宗に味方して参戦、翌12年には稙宗を懸田城に迎え相馬顕胤らと共に、包囲した晴宗方と激しい戦いを展開、城を守り抜いた。
 乱は南奥羽一円に広がり一進一退の戦況を繰り返すが、同17年将軍足利義輝の和睦停戦命令により終結し、懸田城は講和の条件として破棄された。しかし、これに不満の俊宗は天文22年再び晴宗に背いて挙兵したが敗れ、懸田氏は滅亡した。俊宗の奥方、懸田御前の悲話は、この時のことである。
明治元年の戊辰戦争では、8月26日、掛田市街南の境ノ入の小山や川俣街道付近で新政府軍と幕府仙台藩兵が激戦を展開したと「信達ニ郡村誌」にある。
 要衝の地を擁する要害の故か、しばしば攻防の焦点となったのである。

 平成元年2月
 霊山町教育委員会

 ここに立ち寄りたかったのは、伊達政宗が旧地奪還を試みるのに呼応した村民が武装して、この懸田城で蜂起したということでの興味だった。こ局地的に見れば、この騒動は、上杉勢に鎮圧されるという天地人の時の頃の話だ。

 案内板の説明を読んで、誰でも知っている懸田御前の悲話というのが気になった。この話は、地元では当たり前の話らしいことが分かるが、自分ではよく分かっていない。
 「俊宗の奥方、懸田御前の悲話は、この時のことである」としているので、「天文の乱」の終結時に起きた悲話であることは分かる。これも確認したい。
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 個人的には、この説明板が平成元年に建てられたという事にも興味がある。
 この頃、この近くに少しかかわりがあった。しかも、何度か掛田の街中を走る街道が鉤型になっている所から入った辺りの貸家に来ているのだ。ということは、この景色を見ているはずなのだ。

 あの頃、茶臼山公園が整備中だったという話と共に、川越しにこの山を見た景色を思い出していた。
by shingen1948 | 2009-12-24 05:25 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)