地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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霊山寺~宮脇遺跡現地説明会⑦

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 この霊山寺は、貞観元年(859年)に天台宗三代座主慈覚大師円仁和尚が開山した歴史を受け継いでいる。
 昨年は、そのことを中心に「霊山寺の仏教文化を思う」として、山の霊山寺、宮脇遺跡である里の霊山寺、そして、現在地に移された霊山寺に分けて整理した。
 そして昨日は、里の霊山寺とのかかわりから、里帰りしてきた阿弥陀如来像の話題を中心に整理した。

 この寺は、1641年に現在地に移された後からだけでも、刻んだ歴史は古い。
 寺の前に建つ案内板は、霊山寺由来について説明しているが、里の霊山寺の阿弥陀堂を本堂にして再興された寺の視点から述べられている。
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 現在の本堂は、明治30年に再建されたものだが、随所に旧本堂の部材が再利用されているとのことだ。本尊の阿弥陀三尊をはじめ秘仏である阿弥陀薬師如来(慈覚大師作伝)、聖観音像、不動三尊、千手観音など寺宝も多くあるとのことだ。
 参道には、先祖の供養のために建てられた鎌倉期の板碑がある。元徳供養塔の案内標柱が建っている。

 霊山寺由来
 宗派、天台宗、山号南岳山山王院霊山寺(比叡山延暦寺直末寺)
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 貞観元年(859年)天台宗三代座主慈覚大師円仁和尚の開山と伝えられる。
 霊山山頂に18尺の千手観音を本尊として建立され、一山は三千の衆徒を有し北の比叡山と言われたと伝えられ、東北天台宗の中心であったと言われる。
 南北朝時代、北畠顕家郷が一山の衆徒の力を頼み、多賀城より霊山寺の山頂の建物を国府としたため、足利尊氏により攻められ、全山が焼かれ灰塵と化した。
 後年10代伊達氏宗により宮脇の地に再建されたが、野火により焼失、倉波の現在地にあった阿弥陀堂を本堂とした。
 明治30年霊精僧正により現在の本堂が新築された。(けやき造り)護摩堂のはりとして使われているものが元の本堂のはりである(16弁の菊の紋章がある)本尊は阿弥陀三尊(室町時代といわれる)であり、その左手奥に慈覚大師作といわれる秘仏の薬師如来が安置されている。
 護摩堂には、鎌倉時代作といわれる聖観音の外、不動三尊、総丈14尺の千手観音等が奉られている。
 千体仏堂兼経蔵
 明治初年霊山山頂の寺院より掘り出した仏像を霊精和尚が練り直して作った丈約10㎝程の仏像約200体が安置されている外、経典は大般若経600巻と江戸時代の和綴じの経本約千冊程が保存されている。
 山王本地堂
 明治の神仏分離令により日枝神社より移した慈覚大師作といわれる御神体と二の宮7体秘仏と前立21社と毘沙門天が奉られている。
 地蔵堂
 ふるさと108地蔵の札所となった延命地蔵が奉られ天井は花鳥と梵字が描かれている。
 百庚申塚
 江戸時代から明治初年にかけて信者より寄付された庚申塔が約100体建立されている。

by shingen1948 | 2009-12-23 05:25 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)