地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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高子20境「龍背巌」と首塚

 「高子20境」のスタートは、「高子館」だろうか。
 ここは伊達氏の祖が居城したという興味から先に立ち寄っている。
 そのことは、「伊達家発祥の地「高子岡城跡」を訪ねる」と、「高子ケ岡の『亀岡八幡宮』」として整理し、この「高子20境」の景色にもふれている。
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 この他に史跡とかかわるのが、首塚と大鳥城のようだ。
 阿武隈急行の上保原駅前駅前にある案内地図でその場所を確認して、進もうとしたら、ここに上保原の道路元標があったので、写真で記録しておく。


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 歩き始めて直ぐに目についたのがこの石碑だ。
 「真宗東派受圓寺」とあり、龍背巌入口と案内される。「高子20境」の龍背巌への道であることは分かる。


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 とりあえずぐるりと回ってみる。
 龍背巌は、保原の平野に南から突き出た手前の丘の西端にあるようだ。この丘は、平野の一番手前の丘で東西に延びている。
 その南側には、更に高い山々が連なっている。
 <2009/12/14追加> 大塚古墳について確認していたら、この高子20境の龍背巌も古墳とされていることが分かった。
 ここを訪れた時はそのことが分からずに、首塚とのかかわりで整理したのだが、ここも「内山古墳」という円墳そのものということのようだ。
 <2009/12/16追加>おおいずみの古墳調査報告書を確認していたら、この古墳は8世紀の古墳で、蕨手刀出土が記載されていた。


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 登ってみると、山頂付近が岩場になっていて、その西手前が窪地になっている。このあたりに寺があって、それが受圓寺ではなどと勝手な想像をする。
 現況は、この南手に住宅が並んでいる。


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 山頂には、龍背巌という標柱が建っている。ここから保原の平地が一望できる。
 ここから先にあった「真宗東派受圓寺龍背巌入口」の石碑があったあたりを目指して降りてみる。


 案内地図によれば、めざす首塚は、この東側にあるはず。
 登り道を進むと、龍背巌とその首塚を案内する標柱が建っている。
 その案内に従って進むと、また龍背巌に戻ってしまって、首塚が分からない。
 通りかかりの人に伺うが知らないという。
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 とりあえず景色に心をなじませてみようと思って、道に戻って東に進んでみる。
 すると、また首塚の案内がある。その案内に従って進んでいくと、石段がある。


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 その石段を登っていくと、右手にそれらしい景色が現れる。そこに標柱とともに手作りの説明がある。
 何度か作り直したのか、何枚か重なっている。その一番上の説明も、所々破けているが、そこは想像して補ってみると次のようなことらしい。


 史跡 首塚
 伊達市保原町上保原字龍背巌
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 天文9年(1540)のころに伊達家(桑折西山城主)で植宗は子どもたちの多くを近隣の大名たちに縁づけていたが、そのことで常時意見の対立があった。
 植宗が三男実元を越後上杉家に入嗣させようとしたことが導火線となり大合戦となった。最初植宗方に優位に展開したが、子の15世晴宗が、親の植宗を桑折西山城に幽閉してしまった。
 小高城主相馬顕胤(娘婿)はさっそく掛田俊宗氏とともに西山城から植宗を救出し、掛田城に移して晴宗方と戦いとなり、両者に加担する多くの大名や家臣を巻き込んだ長期の合戦に発展した。
 この合戦を天文の乱といわれるが、この合戦のうち相馬顕胤軍と晴宗の軍とが阿武隈川をはさんでの激戦を、保原地方では、「高子原合戦」と称する。
 この合戦では、多くの死者が出た。このとき相馬顕胤は敵味方の別なく戦死者の首を敵味方の別なくひとまとめにして龍背厳山上に葬り、その霊を弔ったという(首塚という)。

 そのため戦国武将相馬顕胤の思いやりが後々まで評判になったのであるが、この戦いは、最終的には、子の晴宗側が勝利した。
 親の植宗は丸森城に引退した。また、桑折西山城は廃城となった。これ以後伊達氏が伊達郡内の城を本城とすることはなかった。
 後に伊達氏は米沢城から岩出山城を経て仙台地方に移って行った。
 昭和の初め、日本赤十字の調査団が保原の首塚を訪れた。相馬顕胤の行いは日赤の博愛精神に通ずるものがあったと推測される。今でも時々相馬地方の方がここにやってくるのが見受けられる。
 「奥相茶話記」によれば首塚は2つあったらしい。

 ここに来てみると、この位置が、東西に延びた丘の東端であることが分かる。
 丘の西端が龍背巌で、東端が首塚という位置関係のようだ。
 東西に延びた丘が龍で、その西端が巌場になったこの丘の頂が龍背巌というイメージでの名づけかなと、勝手に想像する。
Commented by TUKA at 2009-12-09 20:27 x
本題からは外れますが、上保原村道路元標はWeb初登場ではないでしょうか。
資料では上保原字無苦代48にあったとありますが、
なんと駅前に移設されていたんですね。
情報ありがとうございます。
Commented by shingen1948 at 2009-12-10 10:27
 こういうものは、本来あったところにあるともっといいんでしょうね。
 私としては、あとで確認したかったのは、本来の場所の情報です。
 ありがたかったです。
Commented by shingen1948 at 2009-12-10 11:02
 (追)住所で確認したら、小学校脇のところのようですね。
 あのあたり、古い街道を新しく道を広げて直線に直していました。その古い街道を、歩道に改変しているようでした。その辺りと想像がつきます。
Commented by TUKA at 2009-12-10 19:44 x
> こういうものは、本来あったところにあるともっといいんでしょうね
ホント、そう思います。
古い道標が学校や公民館などに移されているのはちょっと残念に感じます。
もちろん無くなってしまうよりは遥かに良いのですが。

小学校付近には古街道なんて地名もありますね。
保原は古都だけに地名も興味深いです。
Commented by shingen1948 at 2009-12-12 05:46
 勝手な想像ですが、道筋は奥州街道とのかかわりでみれば、阿武隈の渡しの事情と重なるのではないでしょうかね。
 だとすれば、古街道のイメージは、旧瀬上の渡しである箱崎から高子への道筋、旧月輪渡しから高子の道筋でしょうかね。

 散歩で感じる重要なポイントは、高子ケ岡・梁川・両山で、そことつながるというこの地区のよさへの思いを「街道」という地名に込めたところがいいですね。
by shingen1948 | 2009-12-09 06:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(5)