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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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菅野八郎の師と熊坂三代と「高子20境」

a0087378_5311812.jpg 阿武隈急行の高子駅や上保原駅で、「高子20境」という名所を紹介する地図が掲示されている。熊坂盤谷が、盛唐の詩人王維の「輞川州」にならったものと聞く。
 しかし、正直なところ、地域の教養人がこの地域のいい景色を並べたことに興味を持てなかった。
 ただ、菅野八郎氏を確認した時に、「若くして高子村の儒学者熊坂台州に学んだ」というのがあって、同じ熊坂氏であることが気になった。

 確認すると、この地域では学者熊坂三代は尊敬される一族で、関連するというのは常識らしいことが分かった。
 その初代が、覇陵(はりょう)(1706~1764)で、高子大尽と言われた豪農、定昭。
 二代台州(1735~1803)が儒学者で、天明の飢饉救貧事業家で「熊坂神」とされる定邦。
 三代盤谷(1767~1830)も、貧民救済に尽くしたという定秀。
 そして、定宣の代に産を失うということのようだ。
 この学者三代が、享保20年(1735)に保原から高子へ移住してきたらしい。

 菅野八郎氏が関わったのは台州だから、その熊坂二代の儒学者で「熊坂神」とされる天明の飢饉救貧事業家ということになる。
 この台州の教えは儒学者や封建制度を批判して、「行わずんば、これを知るに足らず」「君は民を以て存し、亦、民を以て亡ぶ」というものだったという。
 菅野八郎氏の父和蔵も、その門人だったとのことだ。

 「高子20境」の熊阪覇陵は、その初代文人である。
 その覇陵が、伊達氏の祖である中村朝宗の居城と伝える「高子館」の由縁の地に居を構え、この地を「白雲館」と名付け、家屋を「明月楼」と名付けたという。
 そして、その周囲の地にも、中国の都長安の東にあった「輞川(もうせん)20境」にならって、それぞれに合わせた命名を試みたということのようだ。
 覇陵の死去後、その子であり菅野八郎親子の師でもある台州が、天明8年(1788)父の追慕集として「永慕編」を編纂出版した。
 その内容は、熊阪家の由緒、覇陵の業績、20境の位置、20境の図などから成り、ここから高子20境の名が全国に広まることとなったという。

 説明がないのは、知っているのが常識だからということらしい。
 散歩人としては、こういった背景がつながって、改めて景色を確かめてみようという気になる。
少なくとも史跡と重なるところは立ち寄ってみたいと思う。
by shingen1948 | 2009-12-08 05:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)