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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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散策と情報②~舟橋北遺跡

 舟橋北遺跡で気になっているのが、役所跡かもしれないということだ。
 改めて「福島民報」(2009/10/17)報道を確認すると、「静戸郷(しずりべのごう)と呼ばれた周辺地域の役所か、分庁舎のような機能を果たしていたと考えられるという。」と報じている。
 平安時代の建物跡が6棟まとまった形で発見され、うち1棟は米などを入れた倉とみられることと建物跡群の建物の並びをその根拠と報じている。
 鎌倉時代の屋敷跡は、土間敷きの家一棟と柱穴約200個が見つかって、井戸跡も四つ発見された。そのうちの三つは枠が施され、うち一つは木組みがされていたことから、地域のリーダー的な人が使用していたと考えられるという。
 そんな中で、「直刀自」の刻字土器が出土したということだ。
 「刀自」は、夫人に対する敬称で、気になるのが、「直」であることは先に整理した。

 そんな中で、泉官衙遺跡国指定のニュースがあった。
 この遺跡は、寺院跡とされていたのが、7世紀から10世紀前半の奈良から平安時代の役所跡ということになったという経緯を含んでいる。報道の趣旨とは別に、興味は役所跡とされた論拠の読み取りだ。

 いくつかの報道から、その論拠としていると思われる記事を重ねていくと、次の2点が読み取れる。
 その一つは、発掘調査の結果、東西1㎞の範囲から、政庁域、正倉域、館(官舎)を構成する建物群が確認されたということ。
 建物群は、一期(7世紀末から8世紀初頭)が掘立柱建物が中心で、二期・三期(8世紀末から10世紀前半)が正倉域の建物で礎石立ての建物という。
 その二は、遺物としては、軒丸瓦とかの瓦類・土師器、須恵器、円面硯(えんめんけん)や木簡そして、焼き米などのようだ。
 それらを、総合的に考えて、陸奥国行方郡家とする意見が強いとのことだ。
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 改めて、舟橋北遺跡を見ると、論拠はただ一つで、米を集める立場の存在する地であったと言えるということだけのようだ。ただ、説明会に参加して、計画的な建物群ではあったようであることは感じている。
 舟橋北遺跡からは瓦も礎石も出土していないし、この辺りの焼き米の話も聞かない。しかし、少なくも米を集める立場の人がいたと考えてもいいのではないかと思えている。

 鈴木氏の小倉郷とのかかわりを考察する資料の時代は、地方行政が再編され、国(くに)は評(こおり)を経て郡(こおり・ぐん)と名称が変わり、信夫国も信夫郡となっていく。更に、信夫郡から伊達郡が分割している。
 その時代に想定される信夫郡の8つの郷(ごう)を確かめておく。
 ○ 小倉郷(福島市南部、大森川以南で阿武隈川以西)、
 ○ 安岐郷(福島市中心部、大森川以北で松川以南で阿武隈川以西)、
 ○ 岑越(みねこし)郷(信夫山周辺、松川以北で摺上川以南で阿武隈川以西)、
 ○ 曰理(わたり)郷(福島市南部、阿武隈川以東の南部)が信夫郡として残る。
 ○ 伊達郷(福島盆地北部、摺上川以北で阿武隈川以西)、
 ○ 靜戸(しずりべ)郷(伊達市主要域、阿武隈川以東の北部)、
 ○ 鍬山(くわやま)郷(伊達市月舘町や伊達郡川俣町、伊達郡飯野町などの阿武隈高地域)、

 回りくどかったが、その中の靜戸(しずりべ)郷の中心地が、この舟橋北遺跡あたりということになってこないかと漠然と期待する。素人であるという資格から、そんな中での「直刀自」の刻字土器出土とイメージを勝手に広げている。
 残念なのが、この遺跡は近々道路の下になるということだ。
by shingen1948 | 2009-12-01 06:51 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)