地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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新山古墳

 散歩の楽しさは、そこに訪れたことで、実感が得られるという楽しさだが、全く知らない状況で、突然目の前に史跡が現れるという偶然訪れる楽しさもある。
 新山古墳との出会いは、その偶然見つけた楽しさだった。
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 梁川に自転車で来る時には、阿武隈山地の縁をたどってくる。それは、東根堰を捕える積み重ねの意味と、堰は等高線沿いに走るので、移動が容易であるということによる。
 そこを通っているときに、新山古墳の案内標柱に出会って、導かれるままに進んでみた。


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 しばらく山道を登っていくと、左手に、案内板が建っている丘があった。


 近ずいて確かめると、梁川新山古墳群の概要とその位置を示す地図だった。

 梁川新山古墳群(4基)
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 梁川町文化財第6号(史跡)
 昭和49年12月18日指定
 一 名称 新山古墳群(4基)
 ニ 所在地 梁川町大字細谷字新山地内
 由来
 新山古墳群は、ここより徒歩10分約1000mの地点にあり、昭和49年3月14日より8日間に互って発掘調査を行ったもので、この古墳は、8世紀末、奈良時代末期頃と推定され、(AD774年)胴張り(三味線胴)横穴式石室で出土品などからみて、この地方の首長の墓であり一部追葬が行われている。
 古代の郷名は静戸郷にあたる。梁川町においては唯一の古墳帯であり、阿武隈高原西麗における最北隅の貴重な古墳群である。
 梁川町教育委員会

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 案内板の地図をたよりに進んでいくと、直ぐに分かったのが、2号墳と3号墳だ。
 白い標柱が中央に見えるが、これが2号墳で、その右手奥に見える標柱の所が3号墳だ。


 後で確かめてみると、マホロンの「ふくしまの文化財」にもこの古墳群が紹介される。
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 その説明の中で使われている写真が、この2号墳の石室だ。
 そこでは、この新山古墳について以下のように説明している。
 「棺を収める部屋(横穴式石室)がある直径10m前後の円墳が4基発見されており、石室内からは龍をかたどった飾りのついた直刀の鍔(つば)が発見されています。」


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 その西側に4号墳が紹介されているので、そちらを眺めると西側の丘に標柱が見える。
 目星をつけて、丘を下りて行く。
 背の高い草の中を漕いで、傍まで近づく。


 ここまで確かめると、なぜか全部確かめようという気になる。
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 もう一度案内板に戻って、4号墳と2.3号墳の感覚を頭に描きながら1号墳の位置に目星をつけて、2.3号墳に戻る。
 そこから東側に進めそうな道を探す。
 耕地の中にありそうだ。
 躊躇しながらも、そちらに向かうと、途中で、お年寄りのバイクに出会う。
 御挨拶をして少し話しこむ。
 時期は早いがエンドウの種蒔きをするのだとか。


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 何故か満州の話が出て、その話を聞くことになる。話が途切れたところで、一号墳に近づかせていただく。
 貴重な史跡だと言うが俺にとっては宝ものでも何でもないと、お年寄りの話。


 この古墳群は、8世紀末とのことなので、古墳時代の最後期で、次の時代とのつながりを想像するのに良さそうだと勝手に思う。梁川の舟橋北遺跡も古い時代を想定すれば、この時代とつながらなくもなさそうだとも勝手に思う。
 伊達市内の古墳には、この他に愛宕山古墳群、大泉みずほ古墳群があるという。
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 全部といいながら、3号墳が抜けている。ここにそれを貼り付けて、話を福島県という範囲を大きく広げておく。
 古墳時代の前期、会津地方で畿内とほぼ同時期に前方後円墳が作られ始められる。それが、中期(5世紀)となると、会津地方よりもむしろ中通り地方で多く古墳が作られるようになるようだ。
 伊達市を含む福島盆地でも、数多くの古墳が作られているようだ。
 これは、5世紀末には、福島盆地も大和朝廷の支配下に入ったということであり、大和朝廷勢力圏の北限として信夫国造が置かれたという話につながることだ。
by shingen1948 | 2009-11-28 05:43 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)