地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

天神社と天神社旧地

a0087378_450557.jpg
 ここらあたりが、天神町だ。 「ふくしまの城」によると、この天神町を越して上町になるあたりが城下町だったとのことだ。
 天神社の案内板によれば、この天神町が天神様の旧地とのことだ。

 現在の天神社に建つ社伝をもとにした石碑の案内によれば、伊達氏の先祖が勧請したと伝えられているようだ。
 現在地に移動したのは天正年間のようだが、石碑の案内では、天正4年伊達晴宗の代に旧地が狭くなって移動したと記す。それまでは、天神町に鎮座していたということか。
 寛永2年(1625)に、梁川城主になった上杉家臣須田秀満も社殿を改修したという話は、現在地に移動してからの出来事ということになるだろうか。

 現在の天神社は、この先の上町の塩野川ほとりに鎮座する。
 教育委員会の案内板では、享保16年(1731)、石碑では享保14年(1729)東照宮は、尾張徳川家の分家である梁川藩主松平通春が、天神社の相殿に合祀したと伝えられという。
 その後、大火により社殿も類焼したが、明治27年に再建されたのが、現在の社殿ということのようだ。
 天神社
a0087378_4552262.jpg
 天神社はもと天神町にあったものが、天正年間に現在地にうつされたと伝えられている。また享保16年(1731)には、梁川藩主松平通春が日光東照宮を分霊し天神社の境内にまつったと言われている。通春は後の第7代尾張藩主、徳川宗春である。天神社は、歴代藩主などの信仰をあつめた。特に松前藩の家老で画家でもあった蠣崎波響、画業精進と藩の複領を祈願したと言われる。
 梁川町教育委員会

 ※ 東照宮関係のホームページによると、この分霊にかかわる梁川藩は、天和3年(1683)尾張徳川家2代目光友の三男義昌が別家して3万石を領したのに始まるとする。
 通春は尾張家3代目綱誠の19男として生まれ、享保14年に梁川を継いだが、同16年に尾張家を継ぐことになる。
 なお、この通春とは、将軍吉宗の享保改革を批判したことで知られる尾張家7代目の宗春とのことで、この時に梁川藩は廃され、その後はこの梁川の地は天領となって陣屋が置かれたという。



 石碑の案内では、以下のように説明する。

 天神社は、梁川地区の東部を流れる塩野川のほとりに、欅の樹に囲まれ鎮座しております。
 社伝によれば、永観年中(983年頃)伊達家の祖先とされる山蔭中納言政朝公が、鶴ヶ岡に仮の城を築いた時、北郭に社殿を建て、菅野兵部政道(關根家)に祭りをさせたのが始まりと伝えられています。
 その後、文治5年(1189)の奥州合戦で手柄をたて源頼朝から伊達郡を与えられた常陸国中村朝宗が、建久年間(1190年頃)鶴ヶ岡の城を改築・居城(梁川城)とした時、天満宮を再興し、春日大社より、武甕槌神・経津主神・天児屋根神・の三神を奉請し、相殿として祀り、天満宮と名を改め城中守護の神としたといわれます。
 祭礼日には菅原道真公の命日、2月25日と誕生日の6月25日の両日を定めました。
 その後、元中2年(1385)9代政宗が社殿を改修して初めて神輿渡御の神事を行い、毎年6月25日に渡御祭を行ってきましたが、明治11年から7月25日、大正9年から10月25日に変更し現在まで続けられています。
 天神町の旧地が狭くなり天神社が現在地に祀られるようになったのは、15代晴宗の時代で天正4年(1576)のこと、今からおよそ420数年前です。寛永2年(1625)には、梁川城主須田秀満が社殿を改修し、享保14年(1729)には、のちに尾張7代藩主となる梁川藩主松平通春が、境内に別宮を建て日光東照宮を歓請、武運長久の願文を奉納しました。安永8年(1779)に東照宮が大破したので天神社に合祀、寛政7年(1795)に南向きの社殿を東向きに改めました。
 文久元年(1861)には、田町から発生した火災で、町並みの大半を焼失した際、社も類焼、明治27年(1894)に再建されたのが現在の社殿です。
 天神社は、学問の神様として崇敬厚く、合格祈願をする姿が多く見られます。5月の88夜の苗木市も近隣からの人びとで賑わう春市となっています。また、天神社文書は、信達地方の神社を知る上で貴重な資料として注目されています。(「天神社ホームページ」より)

by shingen1948 | 2009-11-25 05:24 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)