地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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興国寺②

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 この興国寺に、松前梁川藩主章広公息女露姫様墓所(文化9年12月15日逝去)を案内する標柱がある。  梁川藩主松平氏の菩提寺は称名寺と聞く。ここにまつられた事情は分からない。
 称名寺には今回立ち寄っていないが、境内には天和3年(1683)銘の毘沙門天を祀る堂があると聞く。


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 この寺に立派な門がある。気になっているのは、この寺に陣屋門があるように思われる半沢氏のメモをみたような記憶があることだ。案内板はない。


 「須田長義の墓」案内板に、長義の墓が梁川城東側の丘陵にもあるという記述があったが、「伊達氏歴史ガイドブック」にいう長義の炭塚と呼ばれるものと同じなのだろうか。
 ガイドブックによれば、その近くが梁川での興国寺の旧地だという。
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 その常栄寺の跡は、現在の梁川中学校の地と推定されているようだ。この常栄寺跡の発掘調査では、方形の堀に囲まれた寺院跡が発掘され、当時の陶磁器片も出土したと聞く。

 興国寺の寺伝によれば、この興国寺の旧地は常栄寺跡ということのようだ。
 この常栄寺というのは、伊達家の宿老牧野紀伊守の菩提寺であったが、伊達氏が梁川を去った後に空き寺になったということのようだ。牧野氏は元亀の変で失脚し、相馬へ逃れたと伝えられるとのことだ。
 輪王寺系譜によれば、太菴梵守という方がこの常栄寺と輪王寺と開山したとのことだ。その太菴梵守という方は、当時越後の耕雲寺住職でもあったということだ。

 そこに梁川城代須田家の菩提寺である興国寺(曹洞宗)が入ったという。常栄寺も興国寺も同じ宗派だったので、興国寺は抵抗なく常栄寺の跡に入ったと考えられているようだ。

 梁川城のイメージは、今のところ西側からの梁川城をイメージするが、いろいろな情報をつないでいくと梁川城の東側からのイメージが気になってくる。
  
by shingen1948 | 2009-11-22 05:45 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)