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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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上杉景勝家臣梁川城主須田長義の墓~興国寺

 大枝城の前の県道320号線から、県道349号線に入り、梁川大橋を渡って、旧梁川町に向かう。
 まず、天神社に立ち寄って、それから、一度梁川城に行く。そして、城の東側の道を八幡神社に向かってみた。
 これは、先に梁川城を散策した時に、何となく古くは城の東側の道がメインだったように感じたからだ。 三の丸の大手道、二の丸への大手道は、この梁川城の東側から伸びていた。そして、城から八幡神社までの道筋に屋敷や寺を配置した。そんなことを実感したかった。

 「天地人の時」に活躍の須田氏菩提寺「興國寺」に立ち寄ったのはその後だ。
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 この寺は、慶長7年(1602)須田長義開基と聞く。
 この須田氏の旧地は須坂市の臥龍山須田氏であり、この興國寺もそちらからが旧地と推測できる。


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 ここに、その長義の墓があると聞いていたが、これがその墓所のようだ。


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 案内板によると、梁川城代須田長義とその夫人及び長義の父満親の墓とのことだ。


  上杉景勝家臣梁川城主須田長義の墓
 慶長3年よりこの地を領した上杉景勝は、伊達政宗に対する重要な場所である梁川城に、須田大炊介長義を城代として任命した。興国寺は、長義が信州より移した菩提寺である。
 須田長義は、政宗の侵攻を撤退し、また大阪夏の陣では、負傷しながら活躍した勇将であった。長義の墓は、梁川城東側の丘陵にもある。中央が長義、右が父満親、左が(お菊の方)の墓である。

 「伊達氏歴史ガイドブック」では、後年、政宗が上杉景勝と須田長義に会ったとき、政宗は懐かしがり、須田に太刀を与えたという話が残るらしいと紹介する。
 その後年とは、上杉氏と佐竹氏と協定が成立して、上杉氏が大義の中では伊達氏の白石侵攻を小さな出来事として伊達氏と組んで関東へ向かおうとした時期なのか、上杉氏が徳川方についた後の事なのかは分からない。
 案内板にある「長義の墓は、梁川城東側の丘陵にもある」というのは、梁川でのこの寺の旧地が梁川中学校あたりにあったという事情とつながるような気がする。
 なお、「伊達氏歴史ガイドブック」は、粟野の須田一族が須田長義の子孫と伝えられるとも紹介する。

 
by shingen1948 | 2009-11-21 05:13 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)