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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大枝城 (伊達市梁川町)

 県道320号に戻って、梁川町へ向かう。
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 大枝集落の右側に幟がひらめいている。振り返ってみると大枝城の案内板だ。その案内板に従って登って行くと、果樹園の中にも案内板があって、そのまま本丸跡まで導かれる。
 
 大枝城は伊達氏の一族であった大枝氏によって築かれたと聞くが、立ち寄りたかったのは、天地人の時にかかわってだ。
 慶長5年(1600)6月21日にこの大枝城に侵入して以来、徳川家康の上杉討伐令に合わせるように、上杉領へ侵攻する。
 「山形・宮城・福島の城郭」によると、慶長五年(1600)関ヶ原合戦の際に、伊達政宗は上杉氏支城の福島城へと侵攻するのだが、梁川城の上杉勢に備えて片倉景綱の軍勢をこの大枝城周辺に配しているとのことだ。


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 標高74mの山頂には、三角点がある。この後ろの景色が、阿武隈川越しに見える梁川町並だ。上杉氏の北の守りの拠点の一つである梁川城の様子がよく見える位置として重要であったろうことが想像できる。


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 その脇に、大條氏居城「綴麻森袖崎城址」と祠も建っている。
 地元としては、天地人の時のかかわりよりは、南北朝の頃(応永元年(1394)?)、この地を所領して大枝氏を名乗るようになる伊達宗遠の子宗行が気になるところのようだ。
 
 大枝氏は伊達氏に従い、各地の戦乱に参加している。天文の乱では、伊達晴宗に従い多くの所領が加恩されている。
 その大枝氏が、ここ大枝城で、宗行以降、宗景・宗澄・宗助・宗家・宗直と6代続く。天正18年の秀吉による奥州仕置きで、伊達政宗にしたがって志田郡大倉に移って、大枝城は廃城となる。したがって「天地人の時」は、この城は廃城になっていたと思われる。
 なお、山頂の石碑が「大條氏居城」となっているのは、大枝氏はここを去った後、大條氏と改めているからのようだ。その後、明治維新を迎えてからは、また伊達姓に改めているという。

 三の丸の現況からその様子を想像するのは難しいが、近世の天領時代には、この三の丸に近郷の御城米の蔵場が置かれていたという。


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 「山形・宮城・福島の城郭」によると、本丸、二の丸、三の丸の3つの郭から成っている。本丸は丘陵東南端の山頂部に置かれ、二の丸とは土塁によって画されている。二の丸は本丸の西、三の丸はその本丸や二の丸の北に置かれて、それぞれ周囲を土塁、空堀によって囲まれていたようだ。


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 現況を頭に描いて家に戻って地図と見比べながら城跡をイメージしようと思ったのだが、詳しい地図が手に入らなかった。
 現況から想像できるイメージを一度整理して、それと比べるしかない。自信はないが、整理してみるとこんな感じだろうか。

 これと「山形・宮城・福島の城郭」の図にはずれがある。そけは、土塁等が崩されたり、耕地化されたりしたためと思われる。
 三の丸がイメージできていなかったのは、現況のせいだが、南西側からの土塁が描けないのは、そちら側からよくみていなかつたせいだ。
 

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 これは、北側からこの城を見ているところだ。

 この城は、東、南、北側の三方を急な崖に囲まれた丘陵上に築かれていることが分かる。
 三方を急な崖に囲まれた丘陵上ということに加え、南東側は阿武隈川に囲まれており、地形を巧みに利用した要害の地であったことが想像できる。
by shingen1948 | 2009-11-19 05:37 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)