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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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天地人の時~保原城~

 伊達氏の抑えを考えた時、上杉氏として仙道筋の要衝は、苅田郡の白石、信夫郡の福島、大森、伊達郡の梁川、安達郡の二本松、四本松の宮森、岩瀬郡の須賀川、長沼、白河郡の小峰だろうか。
 そのうち、白石の甘粕備後守景継(2万石)の他、信夫伊達の城主も、会津三奉行の岩井、大石も加えて重臣を配置されたようだ。
 梁川城主 須田大炊助長義 2万石・ 福島城主 本庄越前守繁長 1万石・ 大森城主 栗田刑部少輔  8千500石・ 宮代城主 岩井備中守信能 6千石・ 保原城主 大石播磨守綱元 5千500石

 保原城以外の城は、この観点とは限らないがとりあえず整理しているので、この保原城も整理しておきたい。
 ここは昔を想像できる風景はほとんど残っていない。それでも、保原陣屋跡があったということについては、案内がある。その陣屋跡について確かめていく中から保原城に近づいてみる。
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 公民館の位置が、保原陣屋跡ということらしい。
 下保原村絵図に、柵や塀で囲まれているところがあって、それが保原陣屋とのことだ。それが、これが現在の保原中央公民館付近とのことらしい。
 更に、そこは保原城の二の丸の部分にあたるということのようだ。

 この陣屋は、白河藩(松平氏)の信達分領支配のために、寛保2年(1 7 4 2)に設置された役所で、保原村を中心に1 7村を支配した。飯坂村や柳田村、掛田村などもその支配に属した。文政6年(1 8 2 3)からは阿部氏白河藩の分領となる。慶応2年(1 8 6 6)に阿部氏が棚倉藩に移っても保原陣屋は存続された。


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 ここに村役場の門柱が残っている。
 また、長谷寺にある山門の案内板では、「明治16年当時、保原総連合戸長役場として使用していた陣屋の門を寄付されたもので」という言い方をしている。
 整理してみると、陣屋跡は、明治16年までには保原総連合戸長役場になっていて、それが、保原村になったという経緯ということだろうか。それにしても、分からないのは、長谷寺にあった門があった位置だ。これが分かるとイメージしやすいかもしれない。


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 公民館前の通りを、陣屋通りと呼ぶ。その陣屋通りを挟んだ南側に、陣屋のケヤキと黒松がある。


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 先の下保原村絵図では、陣屋の右方に広がる方形の土地があって、それが保原城本丸の跡らしい。廃城後は、この本丸跡は畑地になっていたようだ。その本丸は、現在、中野病院の付近と見られるという。
 堀跡の大半は水田になっていたようだ。絵図で、「溜井」・「中村分」となっているのがその堀跡という。
 本丸北側の大堀は元木溜井と呼ばれ、近年まで残っていたと聞く。

 確かに、中野病院の角には保原城本丸の標柱が建つ。
 史跡 保原城
 寛永~寛文(1,636~1664)頃上杉家の家臣小超平政通・清政親子が2代にわたり保原鎮将として居城し、字城の内一帯はその城址といわれる。

 上杉氏の時代には、大石播磨守5千500石の重要な城のイメージで訪ねるが、地元の案内では消えている。

 保原城は、それ以前の詳細が曖昧なようだが、以下のような経緯があるようだ。

 「保原村明細帳」は、保原城は鎌倉初期に伊達氏が創始したと伝えている。
 戦国期には、伊達家臣中島伊勢や懸田御前が在城した節も見られる。伊達政宗家臣となった大内定綱も一時期ここを領したことがある。
by shingen1948 | 2009-11-14 06:08 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)