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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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梁川城⑧~城主須田氏について

 NHKの大河ドラマ「天地人」の放送ももう直ぐ終了のようだ。このブームに便乗して、伊達市の「北の関ヶ原」の講演、「ふくしまの関ヶ原」展、福島県の天地人講座などが開かれ、それに参加して楽しませてもらった。

 このブームの効用がもう一つある。
 この梁川城主須田氏が、気軽に簡単に調べられた。
 須田氏の故郷のページ「直江兼続と須坂」が、散歩人にとっては丁度いい情報だが、多分、これもブームにのって立ち上げたページだと思う。こんな情報が増えている。
 このページから、梁川城散歩に欲しい須田氏の情報を整理させてもらう。

 梁川城主須田長義は、慶長3年(1598年)上杉家の会津移封に、一族を率いて共に移住し、会津梁川に2万石の知行を得ている。
 慶長19年(1614)の徳川方として参陣した大阪冬の陣では、上杉家の先陣をつとめ、激闘の末武勲をあげている。この功により秀忠より直々の感状と短刀を拝領したという。
 (※ 梁川での須田氏は、先に整理している。)
 江戸時代には、一族は上杉家の重臣として江戸家老などの要職を務め、安永2年(1773)上杉鷹山の改革をめぐる騒動で250石となり幕末を迎える。

 直江兼続の妹を娶っている兄の満胤は、秀吉の城である伏見城修理の命に反対を唱えたため、主君景勝の怒りをかって浪人となったが、その子満統が、やはりこの大阪冬の陣で武勲をあげて200石の知行を得、さらに500石に加増して上杉家臣団に戻っている。

 須田氏は、元々は高井郡須田郷(須坂市)を本拠とし、戦国時代に勢力を持ち、武士団を形成していた国人領主の一人だった。
 川中島の合戦(1553年~1564年)は、長義の祖父と父の代の話だ。
 須田一族は、武田方と上杉方に分かれて戦ったが、本拠の大岩城は武田方に攻略され、その時領主だった祖父の須田頼国と父の満親が越後に逃れた。
 「御館の乱」(謙信の跡目争い)で上杉景勝に味方し、上杉家の重臣となり、父の満親が天正13年(1585年)に、景勝の命で松代の「海津城主」に抜擢された。
 天正16年(1588年)には、父の満親は、上杉景勝、直江兼続、色部勝長と4人で秀吉に謁見、豊臣の名を名乗ることを許されている。この父の満親と兼続が親しくて、兄の満胤が直江兼続の妹を娶ったということだ。 
 跡目を継いだのは、二男の長義だが、上記の兄の経緯とのかかわりだろうか。
by shingen1948 | 2009-11-13 06:22 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)