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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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梁川城⑦~「天地人の時」を中心に③

 慶長5年6月23日に7000余騎で攻めても伊達政宗が攻略できなかったのは、梁川城の防御施設の強化だと想像されるようだ。
 攻める伊達政宗の頭に描いていた梁川城は、天正10年4月1日の梁川八幡神社参拝でこの城に一泊した時のものだろうと「ふくしまの城」では想像する。
 しかし、梁川城は、その支城のイメージのままではなく、本城並みに馬出・枡形・横矢掛を備えた攻撃的な構造になっていたとみる。上杉氏が伊達政宗氏に対する備えを意識して構築したためだ。
 なお、本丸石垣は、古い形式の野面積石垣なので、蒲生喜内普請だとしている。

 地図と見比べながら、三の丸と本丸北側、そしてその間に挟まれた二の丸辺りを確かめる。
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 絵地図によると、このあたりに大手口から土橋を渡って、両脇に石垣が迫っていた辺りだろうか。手前の土塁を取り除いて堀を埋めて道にしたあたりと思う。


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 本丸の北の外側のラインと読む。
 
 この道を進むと、上杉氏時代の大手門との表示が建っている。この北側の住宅地が北二の丸だろうか。
 内堀沿いに進んできた道は、正面にガードレールが見えるあたりから、堀をはずして北側にゆるく回り込んで進むようになる。


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 絵地図と見比べると、ここから本丸に入ると、両脇が土塁で囲まれ、枡形を進むようになっていのだろうか。


 上杉氏時代の梁川城大手門跡
 梁川城の大手門は、伊達氏時代は北町頭方面であった。その後、城の整備が進み、上杉氏藩時代には、右城町のカギ型小路(斎藤医院の脇)を通り、この場所が大手門となった。当時の絵図によると、石垣の上に槍門が築かれ、戦いに備えた堅固な大手門であった。
 梁川町教育委員会



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 この門から西側のわずかな空間が残されているのだが、これが、北側の堀の名残りとみる。
 その向こうの校舎の端辺りが、絵地図の櫓跡になるあたりだろうか。


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 ここが、案内板にあった大手道の入り口。
 絵地図では、最初の写真から南東に向けて大手道とする。しかし、案内板では、城の西側から大手道は進むとする。絵地図によると、近世の西二の丸、西三の丸の北の堀と土塁のあったラインあたりだろうか。


 「天地人の時」の話に戻れば、伊達政宗は慶長5年6月の梁川城攻めの後、10月には、家康との密約のもと、2万の大軍で信達盆地に進軍する。
 奥州街道を破竹の勢いで進んだ政宗軍は、連戦連勝で上杉軍を圧倒し、信夫山を本陣として福島城と対峙し、地元では有名な松川の戦いとなる。
 この戦いに関しては、伊達家と上杉家は双方で戦果を強調して記述し、その時期についてもいろいろの説があるらしい。戦記をもとにしているのだから、当然、自軍の名誉や功績が際立つようにカッコいい話に展開させているはずで、詳細な部分はフィクションもあるだろう。しかし、伊達政宗が旧地奪還を狙い、それを上杉が阻止するという構図はあったと見るほうが自然で、その象徴としてこの戦いが、イメージできる。
by shingen1948 | 2009-11-12 05:58 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)