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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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梁川城⑥~「天地人の時」を中心に②

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 確かにここは梁川城跡だろうと実感が持てるのは、大学館という北三の丸だ。
 これは、この北側の土塁から堀を渡って上ってくるあたりの様子だ。梁川には何度か来ているが、立ち寄ったのは初めてだ。土塁も高く、堀も深く幅も広いのに驚いた。


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 これは、北側の土塁を西に見ている。下段は、武者走りだろうか。

 これらの大規模な改修は、上杉氏家臣須田長義の時期の造成ではないかと見られているらしい。
 慶長5年に伊達政宗は伊達郡を奪取したくて梁川城を攻めてきたが、簡単に敗退してしまったといわれているそうだ。その敗因を、梁川城が政宗時代より堅固な城に変身していたからではないかと想像されているようだ。

 鈴木氏の描写では、「慶長5年(1600)伊達成実、片岡景勝、浜田治朗ら7000余騎の伊達郡が、先祖の城梁川城を急襲する。城代須田大炊助(長義)、片岡丹波、築地修理らの上杉勢は、勇戦してこれを撃退する。」ということだ。


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 土塁の東角が一番高く、そこには三角点がある。そこから南に延びる土塁を進むと、この土塁が枡型になっているのが分かる。


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 この桝型の先が堀になっている。ここに橋が架かっていたということだろう。鈴木氏の復原図では、その先に馬出を想定しているようだ。
 「ふくしまの城」では、その馬出の両脇の土橋の両側の土塁も横矢掛けであると記している。


 土類の南側に、伊達氏時代の大手口だとする案内板が建つ。
 伊達氏時代の梁川城大手口
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 伊達氏時代の梁川城は、かぎ型土類のあるこの場所が、大手口であったと考えられる。
 東側の丘のふもとには、東昌寺や龍宝寺、輪王寺などの寺院を配し、天神町、上町が城下町であり、そこから亀岡八幡神社へむかって、松並木の長い参道が続いていたと考えられる。
梁川町教育委員会

 改めて地図を見ると、確かに、この東側が古い曲輪跡になっていて、その北側に輪王寺跡、そして八幡神社に向かう道になると納得する。

 この北三の丸を大学館と言い伝えている由来はよく分かってはいないらしいが、一般的には、上杉家臣の横田大学との関連をイメージする。
 横田氏は、この慶長5年の伊達・上杉合戦の際に、主君を裏切り、伊達政宗に通じて捕縛される。彼は、豊臣秀吉に愛されたことでも知られ、豪勇な武士でもあったとのことである。


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 大学館だが、その位置を現在は宅地になっている北二の丸に描いて提示する資料もある。

 「奥州信夫伊達検地高屏風絵図とその村々の古高新高に関する諸問題」(安田初雄)では、「この本丸北側は大学曲輪とも呼ばれ、横田大学,後には梁川横目の石付十兵衛の屋敷もあった。ここは、本丸と共に新田に開発され、菖蒲沢磯鰻に登録されていたが、文化8年(1811)松前氏梁川藩の家中の屋敷として大学館内で買い上げられた地所もある。」としている。
by shingen1948 | 2009-11-11 06:07 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)