人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

船橋北遺跡現地説明会の後で②~「真刀自」の刻字

a0087378_4254250.jpg
 これは、船橋北遺跡現地説明会資料に提示された器の表面に刻字された土器だが、このことについては、先に「船橋北遺跡現地説明会②」で一応整理したところだった。
 そして、「船橋北遺跡現地説明会の後で」ということで、梁川城を散策したことを整理始めたところだ。

 この土師器の刻字について、地方紙「福島民友(2009/11/4)に、鈴木氏が、寄稿文を寄せていたので、梁川城についての整理が途中だが、ここで、この情報を整理しておく。

 氏は、『「真刀自」は真祢麻呂夫人か~文献と出土文字資料が一致』との見出しで、大胆に推理している。
 簡単にいえば、「真刀自」は、小倉郷に「真祢麻呂」という方がいるが、その方の夫人ではないかという。刀自は夫人の尊称なので、「真○○夫人」ということになるわけだが、それが真祢麻呂夫人ということではないかということだ。
 その真祢麻呂という方の記録は、「日本後記」弘仁3年(812)9月3日に、勲9等小倉公真祢麻呂等17人に陸奥小倉連と賜うとあるという。
 これは、宮城県遠田郡人竹城公金弓ら396人が、「自分らは未だ田夷(稲作農民化した蝦夷)の姓(公)を脱しておらず、永く子孫に恥を残している。どうか本姓を改めて公民(班田農民)となり、禄(生活補助の物品)を支給することをやめて永く課役(租・庸・調・雑徭)を負担させてほしい」と願い出て許可された1人だという。
 信夫郡には、このように税を負担し、差別を脱して名誉を選ぶ元蝦夷が17人いて、願い通りに公から連を賜ったというのだ。
 勲位は軍功者に与えられるのが常なので、彼は、蝦夷征討に従軍しているという。

 先に整理したように、小倉郷は、弁天山南方の地区で、この時代の梁川町は、静戸郷とされている。
 この郷の違いについては、名乗るのは本貫地なので転居の可能性も考えられるし、奈良~平安前期の水田開発進展に伴う郷の統合分割新設改称の影響(特に、養老6年(722)の陸奥按察使管内の百万町歩開墾計画による行政区画の変更)かもしれない。また、行政区画の誤記等の可能性も指摘する。
 隣接地では、信夫郡寺と同じ瓦が出土しているので、この船橋北遺跡の性格を検討して判断すべき点もあるともしている。
 この信夫郡寺というのは腰浜廃寺のことだ。

 確かに、地方紙はこの刻字にこだわってはいたが、仮説や課題を提示するこのスピードには感心する。また、自分も同じものを見ているのだが、その時代の背景や文献的な知識がないかということでもある。そういう知識のあるなしで、推論の広さや深さが違ってくる。これは、想像を膨らませて、そのことを楽しむということにもかかわるなと思い知らされる事でもあった。
by shingen1948 | 2009-11-09 05:06 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)