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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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梁川城④

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 この池を見ているときに、「中世の守護の館としての威容を誇るシンボルとして、池の存在を結び付ける」という見方が少し弱かったように思う。そういったことに疎いのかもしれない。
 文章として、「この心字池の庭園は、東日本で唯一の中世庭園」ということは分かっているはずなのだが、実感が伴っていなかったように思う。

 それに気づいたのは、「多賀城跡・鴻ノ池地区 奈良・平安時代の精巧な護岸施設を確認」という情報を得たことによる。

 その情報によると、多賀城跡・鴻ノ池地区は、池や沼だったと伝えられてきた湿地帯だったが、最近、ここで木材や石を使った奈良・平安時代の精巧な護岸施設を確認したとのことだ。この池は、周辺の地形などから、周囲約400mの巨大な池を有する庭園跡とみられるという。
その池の存在についてだが、中央の都以外の地方の役所(国府)で巨大な池跡が見つかるのは珍しいとして、多賀城が、蝦夷との抗争などを経て勢力を拡大し、威容を誇っていた時期と重なるという言い方をしているのだ。

 この庭園と、権威ある遠侍、主殿・常の御殿・会所・7軒厩がセットを成す守護の館のイメージが完成するのは、14代稙宗の時代と考えられているようだ。
 そのイメージが、福島県立博物館に模型展示され、次のように解説されている。
 伊達氏の本拠であった梁川城(伊達郡梁川町)を発掘調査した結果、屋敷や馬屋と思われる複数の建物跡や池をともなう庭園跡が発見されました。この梁川城の時代に、伊達稙宗は陸奥国守護となり、また有名な分国法塵芥集を制定したといわれます。



 梁川城は、概括的には伊達氏、蒲生氏、上杉氏、そして、近世の代官所としての歴史を刻む。その中で、伊達氏の館というのが、一つの興味で、高子舘→梁川城→西山城→米沢城と本拠を移していくというイメージの中の城だ。

 鈴木氏によると、13世紀から16世紀にかけての遺物が出土することを根拠に、心字池を含む本丸と、北三の丸屋敷とその東側に続く平場、茶臼山北遺跡侍屋敷が、伊達氏の館と想定している。
 そして、本丸東南の東昌寺跡の後ろにそびえる茶臼山館が詰めの城だろうと考えているようだ。
 
 本丸については、更に5期に分けて、9代政宗あたりの期、11代持宗あたりの期、12代成宗あたりの期、13代尚宗あたりの期、そして、この14代稙宗の期をイメージしているようだ。

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 これは、東側に回り込んで、浅間神社側から、この庭園の脇の方から眺めているところだが、こちら側から近づくと、その雰囲気が少し味わえる。

 ※ 多賀城の多賀城跡第81次発掘調査の成果の概要については、「歴歩」の「多賀城市・多賀城跡 苑地跡とみられる護岸施設や創建時の木の柵を確認 現地説明会11/7開催」としてまとめられている記事で、その情報を得た。




「多賀城 政庁跡南の鴻ノ池」について

 多賀城跡第81次発掘調査
 調査箇所: 多賀城市市川字城前地内
 政庁跡南の鴻ノ池地区(政庁の南方250m、政庁中軸線から西へ約50m)

 奈良・平安時代の精巧な護岸施設を確認
 県多賀城跡調査研究所は5日、かつては池や沼だったと伝えられてきた湿地帯「鴻ノ池地区」で木材や石を使った奈良・平安時代の精巧な護岸施設を確認したと発表した。周辺の地形などから、周囲約400mの巨大な池を有する庭園跡とみられる。中央の都以外の地方の役所(国府)で巨大な池跡が見つかるのは珍しいという。
 多賀城の正門と政庁を結ぶ「南門間道路」西側の調査で発掘された。盛り土部分に木材を数本寝かせ、打ち込み杭で固定。上部の岸面には人の頭程度の扁平な石が張り付けられていた。
 今回の確認で池は人為的に造られた可能性が強まり、最長部分で東西約130m、南北約100mに及ぶ巨大な池だったとみられる。
 庭園は地層や出土遺物から8世紀後半から9世紀末まで機能していたとみられ、 [参考: 2009.11.5毎日新聞]
by shingen1948 | 2009-11-08 09:24 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)