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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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梁川城③

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 梁川城をもう少し丁寧に散策してみたいということで、梁川城跡復元図と見比べながら歩ってみることにした。

 この梁川城跡復元図は、伊達市ふるさと会館で開催された「平成21年度伊達市歴史文化講演会<北の関ヶ原>~上杉氏と信達地方~」(2009/9/19)に参加した時の鈴木啓氏の説明資料に入っていたものだ。


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 「山形・宮城・福島の城郭」では、伊達氏の居城の関係を、文治5年(1189)に伊達氏の祖常陸介朝宗によって築かれたとした後、要約すると以下のような概要を記している。

 「伊達正統世次考」には、伊達氏3代義広が粟野に大館を築いて移るとする記録があり、この粟野大館が梁川城を指しているのではないかとする説もある。しかし、梁川城西方約2kmに粟野大館と呼ばれる大規模な平地館があり、この時代は平地館が主流なので、義広が築いたのはこの館であるともみられている。
 4代政依は梁川城に居城した痕跡は無く、5代宗綱、6代基宗の事跡は記録が無いのでよく分からないが、7代行朝と8代宗遠は、「太平記」等で確認できるという。

 南北朝時代に南朝方の忠臣として活躍した7代行朝、行朝の死去後危機に陥った伊達氏の勢力回復を図った8代宗遠の頃は、梁川城を本拠とし、9代大膳大夫政宗はこの城で生まれたとする説もあるらしい。
 この頃の梁川城は、本丸西側の平地に付加された二の丸、三の丸を除いた丘陵上面のみに構築されていて、山城的な南北朝時代に相応しい形態であったとみられている。

 大佛城に拠った11代持宗は、応永20年(1413)大佛城焼失後に梁川城へと移り、応永33年(1428)に梁川八幡宮を造営、嘉吉元年(1441)に輪王寺を創建している。
 梁川城はこの頃に、堀を下げ、土塁を上げ、郭を拡張して一段と整備、拡張が進んだと考えられている。
 12代成宗は梁川城在城は確実で、文明15年(1483)に上洛し、1か月あまり在京して室町幕府将軍足利義政に大量の進物を贈り、伊達氏の陸奥国守護職への就任運動を展開する。
 これが効を奏するのが、大永3年(1523)14代稙宗が陸奥国守護職に補任される。これによって梁川城は守護大名の府城として格式にふさわしい改修が行われたと考えられている。
 しかし、稙宗は、戦国時代に相応しい天険を頼んで天文元年(1532)桑折西山城へと本拠を移した。これによって梁川城は伊達氏の本拠としての役割を終えた。
 梁川城は支城となり、宗清(稙宗8男)が梁川氏を称して城主となる。

 天正18年(1590)伊達氏が去り、蒲生氏郷の所領となると(奥州仕置)、梁川城へは蒲生喜内頼郷が入る。
 慶長3年(1598)上杉景勝が若松城主となると須田大炊助長義が城代となる。
 寛文4年(1664)上杉氏の減封によってその支配を離れると、以後梁川城は廃城となる。その後、幕領や近隣諸大名領として変遷をたどる。梁川藩の立藩もあるようだが、文化4年(1807)には、松前領となり、幕領を挟んで、安政2年(1855)再び松前領となって明治維新を迎えた。

 これが「山形・宮城・福島の城郭」にある伊達氏の居城にかかわる概要だが、ここでは4代政依は梁川城に居城した痕跡は無いとする。しかし、先の鈴木氏は、発掘調査で出土する遺物の上限から、3代義広か4代政依の築城と推定している。(ふくしまの城)
 「伊達正統世次考」の伊達氏3代義広が粟野に大館を築いて移るとする記録を梁川城を指している説と重なる推測なのだろうか。
by shingen1948 | 2009-11-07 05:08 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)