地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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梁川城②

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 梁川小学校の正門へ向かう坂道を登っていくと、そのつきあたりに、「梁川城図」の案内板があり、この学校が梁川城蹟であることを示している。


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 そこから、右手にカーブした道をすすむと校門になり、その脇に「梁川城跡及び庭園」という標柱が建っている。ここは、校庭の西端のラインだ。「山形・宮城・福島の城郭」では、「本丸跡は、東辺、西辺の土塁が残る」とするその「西辺の土塁」だろうか。


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 そこから、西側の景色を眺めると、ここが高台であることが実感できる。


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 校庭を挟んだ東側には、梁川城の庭園がある。


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 心字池を中心としたこの庭園は、昭和53年から56年4月にかけて復元された中世の古庭園とのことだ。

 「山形・宮城・福島の城郭」は、梁川城本丸跡について、次のように紹介している。
 「東辺、西辺の土塁が残り、東辺土塁のほぼ中央に楼台の石垣が発見された。
 この石垣下に俗に心字池と呼ばれる古庭園が遺存している。この池の北側築山の上に浅間神社がある。ここの棟札銘と「信達二郡村誌」は、共に梁川城は文治5年(1189)に伊達氏の祖常陸介朝宗によって築かれ、以降累代伊達氏の居城と記している。


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 発掘調査で、東辺土塁のほぼ中央に楼台の石垣が発見されたというその石垣がこれだろうか。


 案内板が建つ。

 福島県指定史跡及び名勝
 梁川城跡及び庭園
 昭和57年3月30日指定
 所在地 伊達郡梁川町字鶴ケ岡・字桜岳地内
 所有者 梁川町ほか
 梁川城は、伊達氏によって、鎌倉時代に築城されたとみられる。城跡からは13世紀後半よりの遺物が出土しており、14世紀末に活躍した大膳太夫政宗のころには、本城として使用されていた可能性がある。以降伊達氏は室町幕府との関係を深めつつ、持宗・成宗と勢力を拡大、大永3年(1523)伊達稙宗が陸奥国守護に補任されるに及んで、梁川城は奥州の政治的中枢を占めるにいたった。天文元年(1532) 稙宗が本拠を桑折西山に移してからは、伊達領国の重要な支城となり、天正18年(1590)蒲生氏の支城、慶長3年(1598)上杉氏の支城となった。そののち寛文4年(1664)廃城とされたが、文化4年(1807)から文政4年(1821)の間は松前章広の本拠地となった。
 明治32年に梁川小学校が本丸跡に移転し、第二次大戦後は二の丸の地に中学校・高等学校などが建設され、城跡の景観は変えられたが、なお本丸跡土塁・同庭園・桜館跡(新公園)・三の丸跡などに往時の梁川城の姿が残されている。
 これまでの発掘調査によると、本丸跡からは、主殿など数期にわたる25棟以上の中世建物跡・堀・井戸・石敷きなどの遺構、及び陶磁器片・中国銭などの出土品が発見され、伊達氏以来の居館の存在が確認された。庭園も伊達氏居城の時代にまでさかのぼることが推定され、現存する城郭本丸の庭園の全国希有の例として極めて貴重である。
 三の丸は、上杉期の慶長4年(1599)ごろまでに整備を終えたものと推定され、当時は侍屋敷がおかれた。現在土塁・堀などが残り、梁川城の現存する重要な部分である。
 福島県教育委員会
 本丸平城
 東西45間
 南北60間
 この城が、「天地人」の時代とかかわるのは、慶長3年(1598)上杉氏の支城となったあたり。城主は、上杉家臣の須田大炊助長義で2万石だったが、関ヶ原以降は、6千石に厳封されている。
 上杉氏の支配を離れた後は、この地は、幕領、私領など目まぐるしく変遷する。
 その中で、後でこの町を散歩することを考えると、抜き出しておきたいのは、天和3年(1683)~享保15年(1730)尾張徳川光友3男松平義昌の梁川領主3万石だろうか。


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 校庭を挟んだその南側に梁川高校が見えるが、これが二の丸ということだ。


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 その二の丸と本丸の間の道を進んだところが大手門とのことだ。
by shingen1948 | 2009-11-06 05:27 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)