梁川城~船橋北遺跡現地説明会の後で
2009年 11月 05日
現地説明会資料には、今回の舟橋北遺跡周辺の遺跡が示されている。その中で、遺跡の位置関係を確かめる。
気になるのは梁川城だ。確認しようと思う。
「山形・宮城・福島の城郭」によると、本丸跡は梁川小学校の敷地とのことだ。
まずは、説明会前日に、梁川小学校を中心に本丸あたりをぐるりと見て回っておくことにした。
広瀬川を目安にしてくると、大通りの右手が梁川城跡だ。川沿いに東に向かって近づくと、南西側から見えているのが梁川高校で、そこが二の丸で、崖の近くが蔵屋敷跡ということだろうか。
手前の平地が三の丸ということのようだ。
更に、少し進むと崖があるのだが、これが岩地蔵という磨巌仏群でいいのだろうか。
もしそうなら、「伊達市の歴史」によると、方形のくぼみに五輪塔が確認できるらしい。その形から鎌倉から室町期を想像しているらしい。自分で確認はしていない。
昔は、広瀬川がもっと南側を流れていて、この下に東昌寺へ登る参道があったということらしい。
この寺は、宮城図書館の梁川絵図をもとに、梁川高校グランドにあったことを推定するらしい。
梁川城の東側に、この東昌寺、覚範寺、輪王寺などの伊達家にかかわる寺が並んでいて、15世紀ころは、東昌寺は200人の僧がいたが、16世紀に桑折に移ったと考えているとのことだ。
桑折に移った後の伊達家にかかわる寺については、西山城の散策にかかわって、先に整理している。
この梁川やこの広瀬川には何度も来ているし、この梁川城にも何度か来ているのだが、歴史とかかわった見方はしていなかった。
梁川といえば、どちらかというと、地質的な興味が強かったからだ。だから、こんな感じで同じ景色をみていた。
ただ、これでも城とのかかわりを見れば、桝形経由桜舘(屋敷跡)の道筋が見えるということもありそう。
この広瀬川の少し上流には、霊山層と梁川層の境界線があり、貝の化石、サメの歯などの化石などが採れる所もある。
有名なのは、昭和59年(1984年)8月にこの川の河床で良好な保存状態のまま発見された梁川化石パレオパラドキシアだ。パレオパラドキシアは、今から1500万年から1600万年前に生息していた古代の大型のほ乳類だ。
伊達市観光ポータルサイトに、復元骨格と復元想像図が載っている。