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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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渡利地区の阿武隈川沿いの風景③

 福島の飲料水の多くは、この渡利浄水場から、先に整理した弁天山にある配水池に水が送られ、そこから道下に埋められた導管を通って、松齢橋を渡って福島市内に送られていた。今は、逆にこの導管を使って渡利地区に水が送られてきているのだろうか。
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 松齢橋は、大正14年(1925)5月6日に浄水場とともに完成を祝われたとのことで、この橋に対する地域の方の思い入れが分かる。


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 その松齢橋の記念碑が、七社宮に建っているということなので確認する。
 この神社の道路沿いに案内板が建ち、この神社の説明と共に松齢橋記念碑の説明をしている。ただ、錆びが出ていて一部読めない所はある。概要は分かる。
 読んでみると、浄水場と共に完成した今の松齢橋を記念したものではなく、明治16年1月に竣工した15艙の舟をつなぎ並べて渡り板を敷いた最初の松齢橋である舟橋を記念したもののようだ。だとすれば、今の橋の位置からやや東側の細道につながる位置に架かっていた橋ということらしい。
 いずれにしても、この橋に寄せる思いがいかに大きかったかということが分かる。


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 案内板が錆つきはじめているということと、いくつもの橋がかかり、地域が開発され便利になって、川の障害が感じられなくなたこととかかわるのだろうか。


 ふるさとの良さを見つけよう
 <歴史> 七社宮
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 この神社の勧進年代は明らかでありませんが、渡利山王七所明神を祀ったものと思われます。今の社殿は昭和○○造営で、耕地整理碑も同年10月の建立ですが、明治16年12月に松齢橋碑が建設されていますから、古くから土地の人々に信仰されてきたのでしょう。
 松齢橋碑は、明治15年5月に起工され、翌16年1月に竣工した最初の橋で、15艙の舟をつなぎ並べて渡り板を敷いた舟橋を記念したものです。命名は時の県令三島通庸で、この橋のおかげで川俣街道が県道として渡利を通るようになる重要な意味○○○○いました。副碑には、福島730名、渡利○73名の○か周辺○○多くの有志がこの碑の建立にあた○○○を記しています。○○橋の竣工がどんなに期待され、祝福したか、○○の心が○○○くるよう○○ま○○○○
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 松齢橋の記念碑がある七社宮は、河岸段丘の端のライン沿いにある。今でこそ水路が整備され、排水設備が改良されているが、ここからの低地は阿武隈川氾濫原でもある。そこは昔は、砂地だったので水田にはならずに畑地だったというが、現在は住宅地になっている。
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 ここが氾濫原であったという過去を忘れないようにするためだろうか、阿武隈川の河原に、過去の増水時の水位が記されたポールが建つ。
Commented by TUKA at 2009-10-22 19:08 x
この案内板に出てくる川俣街道って後の富岡街道のことですよね。
松齢橋の架橋に伴って県道に指定され、明治19年に新道(信夫発電所の道)が開削されるまで、ほんの短い間だけ県道だったルートはどこを通っていたのでしょうか?
Commented by shingen1948 at 2009-10-23 05:50
 推定ですが、富岡街道は、基本的には旧114号線でいいんだと思います。直接川俣線が結んだという話ではなさそうに思っています。
 道路元標に掲げられた渡利村絵地図をみると、渡利地区の主要な道は、松齢橋の下流の渡しから山口線に重なる道と平ケ森に向かう道が主要道のようです。
 川俣への道は、鳥谷野渡しから、小倉寺村を経由する道が主要道のようです。
 案内板では、それが弁天山まで延びてきて渡利村経由になってきたことを言っているのではないかと思っています。
 明治20年には、岡山線が途中山口線を改良すると共に、岡山まで延びるようですが、これも松齢橋を超えて南側にも伸びたようですね。
 
by shingen1948 | 2009-10-22 05:31 | ◎ 水 | Comments(2)