地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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渡利地区の東根堰③

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 信夫発電所の所から取水した東根堰が、初めて顔を出すのは、南向台への登り口の手前の民家2軒の間だ。その水路が、再び南向台への登り口を潜る。


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 この南側の景色だが、このあたりが高畑遺跡があったあたりだろうか。この遺跡は平安初期の東北地方最古の須恵器の登り窯跡とのことだった。この南向台の宅地が開発される前に、このあたりを散策したことがあるのだが、その時には既にこの遺跡は消失していた。この辺り、質のよい花崗岩質の山砂だったので、その採集のためだ。


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 南向台への道から再び水路が顔を出す。
 ここも渡利地区ではあるが、旧小倉寺村だ。
 信夫発電所から、ここまでの落差は15mあり、東根堰のトンネルの中はかなり急流とのことだが、顔を出してからは、ほぼ水平になる。


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 その水平な水路の脇が、旧114号線国道と平行に走る自転車と歩行者の専用道路となる。


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 東根堰の水路は、弁天山の手前で、再びトンネルに潜り込み、大平山第二配水池の下をトンネルでくぐって、先に整理した渡利地区の北側に顔を出すということになるようだ。
 自転車と歩行車は、国道に導かれる。


 東根堰の経緯だが、まず、昭和8年県営事業として現地点からの取水引水を計画されたのがスタートのようだ。
 それが、昭和初期の大冷害軍事産業増大への対策事業である東北振興策に乗って、発電所のダムも建設されるようになった。
 そのダムが、昭和12年から15年にかけ建設されて、続いて昭和15年に東根堰第一期工事が、竣工されて通水が開始され、昭和19年(1944)には東根堰第二期工事が竣工したたという。その間に昭和10年の県下最大の小作争議や戦争拡大などがあったが、工事は急ピッチで進んだとのことだ。
 先日、図書館で確認していたらこの東根堰の着工は、東根堰の着工は昭和10年5月28日で、文知摺前で地鎮祭が実施されたという記述を見つけた。
 そこに、それまでの岡山地区の災害も列記されていた。近くの村なので、渡利地区でも似たような状況だったと想像する。
 
それまで、毎年水不足が続いていて、がろう山雷神宮の雨乞い行事が続いた。
 明治23年阿武隈洪水、
 明治23・38年岡山冷害~100町からわずか2パーセントの64石しか収穫なし
 明治43年桑畑霜災害5割損害、同年8月の58町6反浸水・岡部橋落橋
 大正 2年岡部橋落橋

by shingen1948 | 2009-10-17 07:24 | ◎ 水 | Comments(0)