弁天山⑧~川俣旧道と大蔵寺
2009年 10月 11日
森鴎外は、エッセイ「歴史其のままと歴史離れ」の中で、「山椒大夫」の作品と、説教節の伝説とのかかわりを認識していたことが分かるという情報を見たが、まだ自分では確認していない。
並行に走る信夫の細道へ導く案内板を過ぎて、大蔵寺に向かう。
半沢氏のメモによると、このあたりは、横穴古墳が多かったとあるが、これもよく分からない。
石段の千手観音への参道道が現れる。ここから山道を散策しながら大蔵寺をめざしたいところだが、その先にも進みたいので自転車を引いて細道を進む。
手前が絵馬平のトンネル、左手が大蔵寺へ分岐点にさしかかる。
つづら折りの坂道を大蔵寺へ向かう。登る途中に、「信夫の細道」への道しるべがある。
この裏が経塚山で、「信夫の細道」は、その山頂を経由しているはず。ここからは、石筒が発掘されていると聞く。
細道を登り切ると、寺の前の広場に出る。
ここの国の重要文化財である千手観世音菩薩は、寺に申し出れば案内してもらえるらしい。
大蔵寺は、かつては天台宗だったが、現在は臨済宗とのことだ。
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<歴史> 大蔵寺
宝城山大蔵寺の開創は、平安初期に東北鎮護を祈願した坂の上田村麻呂が千手観音を造立せしめたことによるとされ、また、徳一大師の開眼とも伝えられる古刹です。江戸末期まで、阿武隈川の西岸に300石近い大蔵寺村があり、この寺の御朱印地だったと言われていますように、寺は初め大蔵寺村にあったと伝えられています。それが東岸に移り、更に、ここ小倉寺山の観音堂とともにあるようになったのはいつからかは明らかではありません。かつては天台宗だったようですが、江戸前期に臨済宗に改められ、現在に至っています。山麓の桜にしだれ桜に迎えられて、山路の参道を登りつめますと、視界の広いこの地に達します。その山門も敵地に配された堂宇も今はなく、かやぶきの方丈と庫裡だけとなっています。しかし、さらに足を運びますと、観音堂や奥の院、また近代的な収蔵庫、更に八幡神社など、全山が史跡と古美術の宝庫となっています。
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案内板説明図によると、寺前のこの右手の石碑が庚申塔と男根石、左手が清水跡、その階段を挟んだ手前(写真に写っていない方)が鐘楼跡ということ。
この辺りの散歩時にカメラが容量の関係で途中で使えなくなっている。携帯の写真で補い、後で撮り直して入れ替えていきたいと思っている。
寺の直ぐ脇は、八幡神社だ。案内板説明によると、ここは小倉寺村社であり、大蔵寺の地主神だったようだ。これもまた明治の神仏分離の影響で大蔵寺から切り離した(切り離された)ようだが、景色としては互いに溶け合っている。
半沢氏のメモには、「雷神社・雨乞い」とある。小倉村の雨乞いはここで行われたということなのだろうか。
境内には「羽黒山・月山・湯殿山」碑や「足尾神社」が鎮座する。わらじも奉納されている。この足尾大神建立は、明治11年8月で、大わらじ奉納は、大正10年からとのことだ。
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<歴史> 八幡神社
明治以前、この辺一帯の小倉寺村野鎮守として信仰されてきました。武の神である誉田別命をまつった村の人々は、村が外敵に負けずに永く栄えていくことを祈ってきました。また大蔵寺の地主神としても信仰され、長い間大蔵寺が守ってきました。明治のはじめの神仏分離で、大蔵寺からは離れてしまいましたが、村人は、昔のままに、おまつりを続けて、祭礼は毎年11月3日に行われています。
社殿は明和2年の改築です。
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八幡神社の前を進むと、森の中に観音堂があり、裏手に多宝塔の奥の院と千手観音収蔵庫が見えてくる。
ここが、信達第一番札所。
千手観音菩薩像は「高さ4m、かやの巨木を用いた一本造りで、頭部に十一面観音がある木造千手観音像」とのことだ。国の重要文化財になっている。
案内板にある坂上田村麻呂が東夷征伐図・福島藩主板倉候奉納絵馬4点(市指定文化財)のほかに、初代信夫橋の絵馬が掲げられているという。
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<歴史> 観音堂
小倉寺の観音さまの呼び名で親しまれているのが、ここ信夫三十三観音一番札所の観音堂です。
小倉寺や 松吹く風もおのづから
千手の誓い 新たなるらん
奥の院の千手観音は収蔵庫に安置され、今の本尊は聖観音立像がお厨子の中に収められています。ケヤキの一本造りで(233㎝余)
千手観音像より時代はやや下るが藤原前期作とされています。引き締まった端正なお姿で、衣のひだは本格的な○波式であり、両廟間の渦文とともに時代色を示しています。内陣の天井には坂の上田村麻呂が観音様の救けを得て東夷を征伐する図が描かれ内壁に福島藩主板倉候が奉納した絵馬4点(市指定文化財)が掲げられています。その他、外陣にも民間人が奉納した大小の絵馬が飾られ、観音信仰の深さと広がりを物語っています。
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昔は、千手観音が安置され、今は、聖観音立像が安置されているという奥の院は、寛政7年(1795)建立の多重塔とのことだったらしいが、今は真新しい感じがする。
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<歴史> 千手観音宗像庫
観音堂本尊として奥の院に安置されてきた木造千手観音像は、昭和37年に国の重要文化財に指定されました。しかし、いたみがひどかったため、直ちに修理復元にとりかかり、1年余の歳月をかけて修復されました。これを機会に建立されたのが、この耐火・耐湿の収蔵庫です。千手観音は高さ4m、堂々たるカヤの一本造りで、面相や躰躯にも力強い張りが漲っています。丈の高い髭に10面をかかげた千手11面観音像で、10世紀はじめの作とされる東北でも有数の平安仏像です。
まわりに安置されている破損仏も一本造の優品で、これまでの像とあわせて24躰が国の重要美術品に認定されています。中には腕を失ってギリシアのトルソーのようなものもありますが、充実した量感がうかがえる傑作ぞろいです。
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「安寿と厨子王」の物語が引きずるイメージの景色はここまでだろうか。花見山から導く新しい道案内された地図も、ここまでにしているようだが、ここから細道に戻って、更に川俣方面に進んでみる。