人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

十万却山へ⑤

 春日神社で十万却ハイキングコース案内図を見直してみると、紹介されている所はおおよそ歩いているのだが、「二つ沼」あたりが抜けていた。どうでもいいことなのに、そのあたりも行ってみておきたいと思った。
a0087378_5165195.jpg
 渡利地区には、三本木橋から入った。


a0087378_5215937.jpg
 この三本木橋を渡るたびに、一度だけのったこことのある三本木の渡しを思い出すのだが、その景色の雰囲気が思い出せないでいた。橋の北側なのか南側なのかもよく分からなかったのだが、その渡し跡を案内する標柱が建っていた。このあたりは何度も通っているのだが、見逃していたようだ。

 この対岸から、「おじさーんっ」と声を懸けると、この標柱の辺りに建っていた小屋の中から男の人が出てきて、両岸に張られたワイヤーを手で引っ張りながら船を操って迎えに来てくれる。地域の方にとっては当たり前の光景だろうが、はじめての経験でちょっと感動したのを思い出す。学生5、6人乗ったはずだが、すいすいと進んだと思う。

 たった標柱一本だが、ここだという確証が思い出をよみがえさせる力を持つ。


a0087378_527515.jpg
 あの時は、このあたりの植物を観察するのが目的だったなあと思いながら、適当に道筋を思い出そうとしたが、そこまでは思い出せなかった。
 そのかわり、東根堰の水路が顔を出すところが確認できた。あの時も、この水路はあったはずだが、その記憶はない。関心も無かったと思う。

 帰りも、渡し船に乗った。
 渡し船に乗ったという実感が思い出せたことで、今日は満足。
a0087378_53377.jpg
 目立つ大きな寺は佛眼寺。
 案内図説明によると、山門は文化3年(1806)建造で、現時点では一番古いとのこと、天保14年(1843)に焼けた旧本堂・番神堂・庫裡・宝蔵は、宝永7年(1710)には建立されていたらしい。


a0087378_535752.jpg
 義人碑は、宝永元年(1704)に直訴で刑死した菅野作左衛門顕彰碑で、大正15年(1926)建立。
 碑文には、菅野作左衛門が困窮を訴えようとしたのを、名主杢右衛門が拒んだとか、8月14日に板倉氏に伏拝坂で直訴し、11月13日須川で処刑されたことなどが記されているようだ。立子山から始まった百姓一揆の一連の流れの中の出来事のような気がするが、確認は後日することに。


 そこから、公民館へ向かう。
 公民館の裏から、塩の道が延びていたという案内だったはず。
a0087378_5395688.jpg
 裏道に向かう道を探ると、観音堂がある。


a0087378_541359.jpg
 少し分け入ると、別世界が広がる。


a0087378_5425862.jpg
 これが塩の道かなと思い、公民館に戻って案内板で確かめてみたが、よく分からない。


a0087378_545542.jpg
 散歩を始める地点を、道標の場所にする。
 ここから、春日神社に向かう少し手前が、この地区の中心地だったと聞く。そこに渡利村の学校も役場もあったようだ。道路元標は、その証。


 渡利村道路元標
a0087378_5514412.jpg
 明治初年、市町村の起点として道路元標が定められ、市町村ごとに重要な場所へ1箇所設置するという基準により当時、渡利村の中央に位置していた村役場に近いこの場所に設置され、大正8年の道路法制定により石標に改められた。
 当元標は県道山口・渡利線(旧福島・川俣 塩の道)の土中から発見され、このほど地もと町内会等の協力を得て保存された。
 渡利村の豆知識
 明治以前   渡利村は福島藩領、小倉村は桑折大宮所の幕領であった。
 明治 4年  廃藩置県により福島県が誕生
 明治22年  信夫郡渡利村と信夫郡小倉寺村が合併して信夫郡渡利村となった。
 昭和22年  信夫郡渡利村、信夫郡杉妻村が福島市と合併した。

by shingen1948 | 2009-09-30 05:53 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)