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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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十万却山へ②

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 天徳寺までの道は、天徳寺墓地の案内はあるが他の案内はない。林の中の砂利道を進んでいく。心細くなった頃、天徳寺墓地が現れ、十万却山入口案内の標柱が現れる。


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 整備された道が、山頂まで続いている。その途中、道沿いにアンテナ小屋がある。ここで、そろそろ山頂近くであることが分かる。


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 山頂の松の木々の根元に雷神が祀られている。
 十万却雷神社講中の方々が建てた案内板がある。
 雷神信仰には、天神様と雷神様が結びつき、菅原道真の怨念とかかわった御霊信仰と習合した信仰の概念もあるようだが、ここでは、元々の火雷天神信仰に近い概念のようだ。
 雷の神が天から降りてくれば、雷という害をもたらす一方で雨が降るという農作物の成育に欠かせない恵みがある。恐れと恵みをもたらすという農耕の神のようだ。
 渡利地区の農耕は、近年になって東根堰ができるまでは、溜池が頼りだったはず。日照りには、ここで雨乞いが行われてきたのであろうか。


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 ここは、信仰の山でもあるらしい。
 個人的に建てられた説明板もある。
 二つの案内板にある行基が、ここを通ったという伝説の根拠は分からない。
 しかし、ここが相馬方部、川俣方部への間道の分岐点であったことは確かなようで、信仰の山である霊山へ連なる道筋ではあったようだ。

 十万却の由来(海抜428.9m)

 今から1240年ほど前、聖武天皇が奈良東大寺に大佛建立の勅命を出されたことにより、資金集めのため有名無名の僧が仏教の普及と勧進のため東奔西走した。
 それらあまたの僧のうち「陸奥の小田なる山に黄金あり」ときき、これを得んものと陸奥に向かったのが時の名僧行基であった。行基は多賀城を目指してはるばる陸奥深く分け入り、大川(阿武隈川)の流水に沿って下った途中山に臥し野にいね、幾山河をこえた。ようやく秋近い或る日の夕方十万却にたどりつき、老松茂る峰に一夜の宿りをされた。明ければ晴れ渡った大空の下、西に吾妻の山々、そして、眼下には信夫山がくっきりと盆景の如く浮き上がり、雄大にして巧緻きわまりない絶景にしばし見とれた行基は「この地は聖地なり、永却に鎮り慈悲を垂れ給え」と祈念して背負って来た地蔵尊を、老松の根元に安置して今の山口の方に向かわれたと伝えられている。
 その後日照りの年には、村々人たちが此の山に登り雨乞いをしているが、必ず慈雨があったという。
此の地は古く石器時代より人家があり、公園造成の折数々の石器出土し、行基が言われた聖地のため。雷神・風神・山神・金剛山・三峰山の碑が祀られている。相馬方部、川俣方部への間道の分岐点でもあった。
 昭和57年9月5日
 十万却雷神社講中



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 山頂について、まず感動するのは、今まで生活してきた空間が、眼下に見下ろされる景色だ。
 ここで聖なるものを感じて、純粋に何かを表現したいという気持ちがよく分かる。


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 今の時代、その地区が完全に見渡される山の象徴として、アンテナ塔も勿論ある。
by shingen1948 | 2009-09-27 05:22 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)