春日神社②~信夫渡碑
2009年 09月 24日

春日神社の社の左奥に「信夫渡し碑」(金竜山人筆)というのが建っていて、そこに能因・重之・光俊の歌が紹介されている。この碑を「能因法師の歌碑」だと紹介する人も多い。
熊因法師
浅茅原荒れたる宿はむかし見し人を信夫の渡なりにけり
源 重之
逢隈に霧たてとひしから衣袖の渡に夜も明けにけり
光俊
風そよくいなほの渡霧はれて逢隈川にすめる月かけ
能因法師が二度目の東北の旅の時に、常陸から久慈川をさかのぼって信夫の里に着いて、旧知の友を訪ねて信夫渡利に来たのだが、その人はもう亡くなったと聞き、惜別追悼の情から歌ったと言われているという。
福島県歴史資料館古文書講座の「絵図と旧渡利村:解読(春日神社)」の後半には、以下の石に刻まれた文章が記されている。
信夫渡碑
奥州信夫郡福島城南有一山曰渡村村与福島城隔隈
水其渡口則古右國風所詠信夫渡者也余嘗与村老談言偶及
此父老喜曰微執事之言吾儕小人何以知吾村之為名區哉
遂謀刻古辭拾石以寓陵谷之意於是擇地村中央有一山
上有春日口地勢既雄臨觀又美則設建碑口右以示
永二乃乞銘余銘曰陸奥名州信夫喜郡勝跡寔多何人不問
△二雲錦既歌良工維此古渡亦咏諸公村之父老能▽昔賢
爰勤其辭長照山川天明丁未秋九月伊達熊阪定邦撰
熊因法師
浅茅原荒れたる宿はむかし見し人を信夫の渡なりにけり
源 重之
逢隈に霧たてとひしから衣袖の渡に夜も明けにけり
光俊
風そよくいなほの渡霧はれて逢隈川にすめる月かけ
金竜山人長谷川豹書
信夫の渡しは単純に今の荒川を渡る信夫橋とはいかないのかもしれない。阿武隈川が、弁天山裾近くを回り込むように流れていた可能性もある。福島の方からこの渡利への渡しが春日神社の近くにあったという景色の中でここに建ったのか、春日神社が心のふるさとで、そこに渡利のPR記念の碑を建てたということなのかは分からない。
渡利の地名はこの歌に由来しているという説もあると聞く。
「和妙鈔」の安達郡の郷名として、小倉、曰理、鍬山、静戸、伊達、安岐、岑越という駅の曰理が現在の渡利であるという説も聞く。