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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「庚申壇古墳説明会⑧~説明会の後で② 」

 案内板にある「この付近は、多くの古墳があって七ツ坦とも言われていたが、現在は庚申檀・金山・天王檀・二子塚の4つの古墳が残っている」とある。行政区としては、金山・二子塚が大玉村、庚申檀・天王檀が、本宮市に所属する。
 大玉村史では、この辺りを「地蔵堂古墳群」として紹介している。その地蔵堂は今はなく、紹介からみると随分開発が進んではいる。地元の感覚では本宮から岳温泉へ向かう道沿いのごく当たり前の普通の景色でもあるらしいが、他所から来きたものにとっては充分散歩が楽しめる。
 
 この古墳群の中の天王壇古墳からは、多くの埴輪等の出土遺物が出土している。その出土品は、本宮の「歴史民俗資料館」で見ることができる。庚申壇古墳から出土した円筒埴輪や朝顔型埴輪も完全な形を見ることができる。
 そこを訪ねた様子は、先に「天王壇古墳の出土遺物の展示を見る。~本宮の「歴史民俗資料館」」として整理した。
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 今回立ち寄ったのは、六社山古墳群の辺りだ。
 この辺りを知ることのできる手持ちの資料は古い。この山を縦断する道路や村の運動場ができる前の資料で、現在の地形と照らし合わせてイメージするのに時間がかかった。今でも、まだ頭の中がよく整理されてはいない。


 六社は、今の神原田神社のことだ。
 境内に建つ「神原田神社12神楽」を紹介する案内板に、この神社について以下のようにふれている。
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 大山地区には古くから豪族が居住していたことから、地方でも最も古い由緒ある神社と考えられる。またこの神社には源義家戦捷祈願の伝承がある。(この神社は)6社大明神を祀る神社で、地元では6社様の名で長く親しまれてきた。社殿は、文政年間に改築されたものであるが、当時は『安産の護り神』として近郷からの参拝者が多かったようである。明治になり「神原田神社」と改称した。


 この辺り、今は村の運動施設があるのだが、その前が大山中学校だったようなのだ。その大山小学校建設に伴う遺跡破壊と保存の様子について大玉村史に紹介されている。


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 その大山中学校が建設された頃の様子から、古墳に関わる記述を抜いてみると「昭和28年に福島大学が忠霊塔前に残る石室他円墳二基を発掘調査した」とある。多分その忠霊塔の前の石室というのが、ここだと思う。
 これって、今回見せていただいた木棺用の墓だなと一人で勝手に納得。
 円墳は、忠霊塔の南脇に1基、その西に1基残っていたという。そして、その西方に小円墳二基あったが、この時点で畑になって消滅していたと記述されている。


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 これは、この辺りの石を払いのけたものらしい。宝の山かもしれないが、怪しまれるのでいじるのは遠慮する。


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 六社山を南側から眺める。


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 この眺めの南側には、墨所土器がたくさん出土したという大畑遺跡が広がっている。


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 これは、六社山を東側から眺める。
 この東側には、県の企画展冊子に生産遺跡として紹介された「住吉B遺跡」がある。


 その北側には、原形はないが昔は庚申壇古墳から金山古墳、天王壇古墳までの辺りと似た古墳群の景色があったはず。
 位置的に分かりやすいのが、谷地古墳。これは、大山小学校校庭の南端のやや高まりになっているあたりだ。そして、そのすぐ西側の信号のある民家辺りが久遠壇古墳。これも今はない。それに現存する南東側の二子塚古墳と合わせてイメージすると、昔は本宮から岳温泉へ向かう道沿いの古墳群と似たような雰囲気ではなかったかと想像を膨らませることができる。

 この辺りは、調査が入らない所でも散歩人が勝手に想像を膨らませてしまう所がいくつかある。例えば大壇という所は、調査時では縄文の狩場らしい跡しか見つかっていない。しかし、その住所や畑に横たわる大きな石などからひょっとするとと想像している。想像は自由だ。
by shingen1948 | 2009-09-10 05:32 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)