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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」⑤中舘南東の虎口②

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 この中舘あたりが改変されているという事実は、その時期や誰がということが気になる。いろいろな想像を呼び覚ます。
 「ふくしまの城」(鈴木 啓著)では、「本城における織豊時代的要素は、後世の修築という見方もある」とする。

※ 写真は中舘から第9調査地点をのぞむ

 説明会だけでは想像の仕方がよく見えなかったが、平成19年度に提出されている計画書には、そのヒントらしきものが見える。
 ほぼ確かなこととして考えられているのは、本丸、二の丸あたりは、鎌倉時代から存在する館跡であるようだということだ。ただ、計画書によると、この時代の山城への居城には、疑義があるとされた時代もあったようだ。
 基本的には天文元年(1532)に伊達稙宗が、梁川城からこの西山城に移ってくるあたりの遺構は、中舘・西館が中心と考えていいようだ。
 修築関係で確かなことの一つは、本荘氏が福島城からこの城に移ろうとして手掛けたこと。これは、大分県に残された地図等から進み具合が想像できるようだ。
 もう一つは、戊辰戦争時の砲台跡。これは、発掘調査によって確実性を増しているようだ。

 計画書から「本城における織豊時代的要素は、後世の修築という見方もある」とするのが、枡形虎口あたりと本丸の横堀あたりであり、これが16世紀前半のつくりではなく、16世紀後半のはずという仮説らしいことが推測できる。

 今回の修築関係とかかわりそうな想像について、次の2点の例が示されている。
 ○ 伊達政宗が、虎視眈々と失地回復を狙っていたこととかかわって、
 ○ 蒲生氏郷や上杉景勝が、伊達政宗の失地回復を狙っていたことにたいする砦として、
 初めの想定になることにかかわる時代は、小田原征伐の時期で、黒川城・向羽黒城・米沢館山城が着々と修築整備されている。この時期に、田村郡の入口にある木村舘が石積みの枡形虎口城郭に改修されているらしい。このこととかかわる推定だ。
 後の想定とかかわるのは、ただいま放送中の天地人の時代だ。石田氏が、上杉氏が伊達氏に備えた改修と想定している例を挙げ、近世の可能性も十分あり得るとしている。
 ただし、どちらの想像も資料となるものが存在しないので、私たちの想像は自由だが、専門家の方々にとっては仮説でしかないということのようだ。
 改めて今回の発掘調査を伝える新聞記事を確認すると、新聞報道も見出しに「?」を付けて想像を膨らませて報じている。これは、この計画書も読み込んで書いているらしいことであり、感心させられる。

 なお、西山城の変遷については、先に「桑折西山城④の変遷」として整理しているが、今はやや甘さを感じる。





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by shingen1948 | 2009-08-31 05:03 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)