地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」④中舘南東の虎口

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 これは、中舘南東の虎口にかかわるあたりのイメージ゛だ。この枡形虎口部分は、発掘前でもイメージしやすい所だった。


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 この虎口にかかわって明らかにしようと第4調査区の発掘が行われたようだが、平場に通路跡や建物痕は見つからなかったようだ。
見学者の中からぽつんと聞こえた「梁川もなんだよな」というのが耳に残る。


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 これは枡形虎口を降りて第9調査地点に向かう途中だが、降りる通路部分はかなりの急勾配で、素人としては当時のままとも思えるし削られている可能性はないのかなどと余計な事を考える。


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 これは、第9調査地点から、この枡形虎口を見ているところだが、構造がよく見える。中舘から降りるあたりは、右側と向かえ側に土塁が積まれ、きれいな枡形になっている。
 
 この虎口にかかわって、「ふくしまの城」(鈴木 啓著)にある次の二つの見方も気になる。
○ 「本城における織豊時代的要素は、後世の修築という見方もある」とする。
○ この西山城が他の大名国人の城館の規範性を有している。
 その二番目の理由は、天文元年(1532)に伊達稙宗は、梁川城からこの西山城に移ってくるのだが、稙宗は、大永3年(1523)には、陸奥国守護に任じられているということだ。
 つまり、この城は室町幕府権力を背景とした軍事指揮権に基づく奥州支配拠点「守護の館」としての意義があるという。
 陸奥の大名国人がここに参集し儀式・宴・能・談合が行われたということであり、文国法や段銭帳の編纂整備が行われた城という位置づけである。
 恐らくこの城は先進性に富んでいただろうし、着目されていたはずで、他の大名国人の城館の規範ともされているだろうということだ。
 この中舘南東の枡形虎口というのが、この見方からすると着目したい部分なのではないだろうかと勝手に思う。


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 この虎口から降りて、真っ直ぐ通路が伸びている。


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 第9.8調査区は、創建当時の堀跡の確認のようだ。これは9地点だが、奥のテープが堀の端を示しいてる。


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 これは第8地点を中舘の上から眺めた様子だ。奥のテープは、堀の端を示している。
 以前は虎口から延びる通路に沿って、その東側に堀と土塁が巡っていたということのようだ。


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 これは、第9調査地点の中舘寄りから南側の高台を見ている。
 
 まず、堀状の遺構が埋め立てられて、その後に枡形虎口が造られる。そして、この壇になっている中舘南西部の土塁などが造られるというような改変が行われているということのようだ。
 今回のこの地点の成果は、このことがある程度見えてきたということらしい。

 この城を舞台に、稙宗と晴宗の対立したことについては、「西山城⑥~稙宗と晴宗の対立の舞台」として整理しているが、この中舘・西舘での出来事と想像する。
by shingen1948 | 2009-08-30 06:13 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)