地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」③中舘西の虎口

a0087378_441323.jpg
 これは、第3調査区を中心に、中舘西の虎口にかかわるあたりの様子だ。

 この調査区での大きな成果は、西側から中舘に通じる通路が確認されたということのようだ。


a0087378_4471813.jpg
 登り口からこの館に入った辺りに、建物痕があるが、本丸跡では精査が進んだようだが、ここは一か所だけ関連するマークがされている。ここの痕跡は、西側から登ってくる通路が、この奥にある舘本体に向かう位置であることから、その目隠し程度のものと想定しているようだ。


a0087378_453523.jpg
 舘は、この調査区の奥の林になっているあたりだと考えられているようだ。


a0087378_457435.jpg
 ここが、この館に上がる通路らしい。ここに門らしいものが確認できない状況から、説明では通路としているらしい。


a0087378_511114.jpg
 第3調査区では、西側からこの舘の平場に登ってきて舘に通じる辺りの様子を明らかにしようとしたものらしいことが分かる。


a0087378_55578.jpg
 この第3調査区から登り口あたりをのぞきこむ。
 奥の赤い柱が立っている辺りから、この中舘の北東端にあたりに向けてが通路になっていて、そこから回り込んでこちら側に進み、西の奥にある館に向ったのだろうか。


a0087378_5112776.jpg
 中舘の北東端から、ここに登る通路を確認する。
 赤い柱が立っている辺りからここに向かう道筋らしい。
 この通路は、堀があった時代なのだろうか。そうならば、そこを土橋でこちににむかうことになるのだろうか。それとも、堀が埋め立てられて平場になってからのものだろうか。


a0087378_5154618.jpg
 この平場からは、第4調査区も含めて気になる建物跡はみつからなかったようだ。ただ、1500年代前半の陶磁器が出土しているらしい。


a0087378_5193898.jpg
 1532年(天文元年)に、伊達家14代伊達稙宗が、本拠を平城の梁川城から桑折西山城に完全に移して大改装されたのだが、その時にはこの西館や中館を中心に整備されたのではないだろうかと勝手に想像する。
 それが、次の15代晴宗が米沢に移城してこの城は廃城になり、ここでこの城の変遷が一度ストップする。

 これ以前は、本丸と二の丸が中心だろうか。
 この城の沿革には、本丸である高館が初代朝宗の創建とか、9代の政宗の創建とかという話があり、その前にもともとは佐藤氏がかかわった館だったのではないかという話もある。

 先に長倉館で触れた以下の事件で言われている「赤舘」は、ここの本丸のことだとも言われている。
 応永7年(1400)に、先9代の政宗が稲村公方足利満貞の下知に従わなかったので、関東官領足利満兼を赤館と長倉館を討たせようとして派遣したが、追い返されてしまった。
 また、応永9年には、勅使河原兼貞が28万騎で赤舘・長倉舘を攻めたが、追い返された上に、兼貞は生け捕りにされたと「余目氏旧記」にあるという。
同年、上杉が、近国の軍勢を動員して赤館に攻撃を加えて落城させた。それで、9代の政宗は会津に走ったという。

 再びこの城の変遷が、少し動こうとしたのが、本多忠国の延宝8年(1680)の構想らしい。福島の城が手狭になって、ここに居城しようとしたことがあるらしいという話だ。   わずか2年後には移転となり築城は中止されるが、石垣部分などはその遺構ではないかともいわれているらしい。この改変も、中舘・西舘であろうと推定されるので、改変の跡は関連するのだろうか。それとも、別の力なのだろうかと、勝手にいろいろ想像させられる。
 「ふくしまの城」(鈴木 啓著)では、「本城における織豊時代的要素は、後世の修築という見方もある」とする。
by shingen1948 | 2009-08-29 05:22 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)