地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」②~中館西の中壇帯郭

 昨年5月に、砲台跡の案内板をもとに、この中舘あたりを歩いた様子を「西山城の探索②」として整理している。改めて確かめてみると、この時にイメージした西館の位置がずれているのが分かる。恐らく現在林になっている部分を西館とイメージしたようだ。実際には、ここは中舘の一部で、その部分にこの館の建物部があったであろうということだ。
 西館は土塁を挟んだ奥で、南奥の桃畑の中でつじつまが合う。
 この時に、何故岳藪が整理されているのだろうと思ったのだが、この調査のためだったということが分かる。

 これは、中舘のうち、今回調査された全体のイメージだ。
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 案内された順序に従って、中館第5調査区から順に整理していく。


 これは、中館第5調査区を中心に、中舘の西側の中壇帯郭にかかわる部分のイメージ図だ。
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 ここでは、中舘西側の中壇帯郭の構造と、その構造の変遷を説明された。
 それによると、創設当初は、堀が掘られ、その堀った土をその外側に積んで、土塁を廻したと考えられるようだ。このことは、昨年度確認した本丸の堀と土塁も同じような構造だったことを思い出す。
 ここは、その後改変が加えられ、この堀を埋め立て平地にして、中壇帯郭を形成していると考えられるようだった。


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 ここは、一度当時の地表である平地を出して、その後に、更に掘り進んで、創建当時の堀底まで掘り進めて確認したようだ。


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 テープでマークされているのは、平地からもう一段掘り進めて、創建当時の堀の様子だ。


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 奥のテープのラインが、舘側の堀の端のライン、手前が堀の土を積み上げていたラインと考えられる。

 それらをならして、改修されて中壇帯郭を形成したということらしい。


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 今回説明はなく、質問もしなかったが、これは平場になった後の建物痕だろうか。


 創建当初は、ここは、土塁と堀がめぐらされて、防御の意図が濃い場所だったようだ。
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 それが、この今回見つかった虎口の通路を挟んで、その西奥から続く平地の中壇帯郭を形成している姿というのは、大改修した後の姿だったということらしい。


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 その下の壇の第6・7調査区では、地山のままらしく、急勾配の切岸を城の防御としているらしいということのようだ。


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 これは、西側(自分の感覚では北側)からの今回の調査地点の風景だ。掘られたところが見えているのは、第7調査区。
 分かりにくいがその上に平地の中壇帯郭の壇があり、中舘の平場がその上にある。
 右手が今回みつかったという虎口で、左手奥が今までも確認されていた虎口の方向だ。
by shingen1948 | 2009-08-28 05:48 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)