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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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神指城跡⑨~散歩を終えて⑤

 安子島城の直江兼続は、対峙する家康の勢力の動きを、石田氏のいう配置でイメージしているはず。その中の佐竹氏をどう読んでいるのかが興味のあるところだ。
 佐竹氏は、仙道口(棚倉方面)に配される。全体的には、白河口(白河方面)は家康と徳川秀忠の主力部隊が、信夫口(伊達郡方面)は伊達政宗が、米沢口(米沢方面)には最上義光ら出羽衆が、津川口(新潟県阿賀町方面)は前田利長と堀秀治が配される。

 石田氏は、この佐竹氏を上杉方としてみる。氏は、根拠として加藤清正、福島正則らが大阪の光成邸襲撃画策の際を例とする。
 伏見屋敷にいた佐竹義宣は、相馬芳胤と重臣の東義久を派遣して光成を救出して、宇喜多秀家と相談して、大阪にいって駕籠に光成を偲ばせて、伏見屋敷に連れ帰ったとしている。
 また、事実としても、佐竹氏は神指城築城に家臣団や常陸国の佐竹義宣の家臣300人の応援を送っている。
 佐竹義宣が、東館(矢祭町)・伊香(塙町)・台宿(塙町)を経て赤舘(棚倉)へ軍をすすめた時、この佐竹氏の本音を兼続はどう読んだかだ。
 石田氏は、須賀川城主二階堂盛義の旧家臣だった須田盛秀には、赤舘より先へ侵攻しないように命じたというのだが、……。

 秋田の佐竹氏について、もう少し整理しておきたい。
 自分のイメージでは、この時代の動きとのかかわりで佐竹氏に興味があるのだが、秋田の地元の方は、それよりは藩の時代のイメージのはずだと思っていたのだが、その生のイメージを得るチャンスは、秋田知事選の折だった。
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 整理すると、一般的には次のようなイメージかなと思うのだがどうだろうか。

 知事の敬久氏の流れは佐竹北家とのことだ。佐竹北家は、本家から分家して佐竹家の家臣となっていたとのことだ。
 明治維新の後、佐竹本家が五段階貴族上位になった影響で男爵の椅子を得ているという。これは維新の主役の鍋島(肥前)、山内(高知)大優遇に並ぶのだが、それは戊辰戦争時の決断によるという。
 藩主が倒幕を宣言し、東北の列藩からは裏切りのそしりを受けるが、これが2万石の加増と名誉としての候爵位を得たという情報だ。ただ、本根としては、これで茨城の地に帰れるとか20万石の倍増といった夢があったのではとも……。
 その夢は破れて、巨額の戦費を外国商社から借金して困っていたともいう。勝手に貨幣を鋳造するなど、秋田県では中央に対する反抗的な気分が残ったともする。

 ちょっと長めだったが、秋田に移封になった佐竹氏を整理した。

 なお、秋田と自分の興味とのかかわりに戻ると、秋田の角館城の城主戸沢氏が、上杉氏の動向を逐一報告していて、その功が認められ、山形新城藩が与えられる。そして、それにかわって角舘城に入るのが、会津とかかわる葦名氏の最後の当主義広なのだ。菩提寺として、会津から天寧寺を移したと聞く。義広は、佐竹義宣の実弟で盛重と改名している。
 角舘城の葦名氏が、3代で佐竹本家に潰されるということと、佐竹北家との関係は、……。
 興味は広がる。
by shingen1948 | 2009-08-26 05:24 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)