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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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神指城跡⑧~散歩を終えて④

 神指城の築城には、領内の人夫約12万人が動員されたことのことだが、気になったのは、佐竹氏がこの築城に協力しているということだ。家臣団や常陸国の佐竹義宣の家臣300人の応援を受けているという。
 石田氏によると、5年6月6日、家康が会津上杉討伐の作戦を定めた時は、家康方になって仙道口(棚倉方面)の役割を担っている。白河口(白河方面)は家康と徳川秀忠の主力部隊が、信夫口(伊達郡方面)は伊達政宗が、米沢口(米沢方面)には最上義光ら出羽衆が、津川口(新潟県阿賀町方面)は前田利長と堀秀治を配したとのことだ。
 徳川方として動いている。
 ただ、7月に佐竹義宣は、東館(矢祭町)・伊香(塙町)・台宿(塙町)を経て赤舘(棚倉)へ軍をすすめたのだが、須賀川城主二階堂盛義の旧家臣だった須田盛秀には、赤舘より先へ侵攻しないように命じたともいう。

 佐竹氏については、対伊達氏としてイメージしている。
 大きくは、二本松城の畠山氏が、対伊達氏とのかかわりで会津の葦名氏を頼り、葦名氏が佐竹氏を頼るという流れが自分の持つイメージだ。このことから、自分の頭では対伊達氏勢力として上杉と佐竹とが親密となっていることは、分かりやすい構図ではある。
 気になるのは、家康方のポーズだ。保身のために先が読めるまで天秤にかけていたというしたたかさなのか、本心は上杉方だったということなのかが分からない。
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 この佐竹氏について整理しようとしたことが何度かあった。興味はあるが、まとめようと思わせる決定打がないのでそのままになってしまう。
 昨年、伊達氏が摺上原を経由して会津へ入ったことを探ったが、その延長に、……。
 一昨年は、秋田に出かける用事があって、その会議が久保田城内にある施設で行われたことがあった。これもまた一つのチャンスだったが、……。
 更には、今年秋田県知事選があって、その知事が佐竹氏とかかわることがあった。それもまた一つのチャンスだったが、……。そのままだった。
 そして、今回だ。今回は、いくつかを整理しておくことにする。
 まずは、一昨年、秋田に出かけたとき、北西の二の丸から本丸へ向かってちょっとだけ散歩した。まずは、それを整理しておく。現在は、千秋公園として整備されている。

 久保田城は、慶長7年(1602)に出羽国へ国替えとなった佐竹氏25万5800石の居城であり、複数の廓を備えた平山城だったという。
 築城は、慶長8年(1603)年に開始されて、翌年には旧領主秋田氏の居城であった湊城から初代藩主佐竹義宣が入った。その後も城普請は続けられ、完成したのは寛永8年(1631)頃だったという。

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 これは、穴門の外堀だが、この奥が県民会館になっている。
 この城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であることと、天守閣をはじめから造らなかったということのようだ。国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが考えられている。


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 北西の二の丸から本丸へ向かう。石段になっている狭い坂道を何度か折れて登って行くと、大手口二の門等の表示がある。
 そこを登って行くと表門(一の門)に出る。平成13年に復元したとのことだ。瓦葺き2階建、高さ12.5mの櫓門形式の正門で、門内には御番頭局、門の外側下手に御物頭御番所を置いて、厳重に警備したという。


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 本丸跡に佐竹家最後の12代藩主佐竹義堯(よしたか)銅像 が建っていた。
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 ここは、二の丸a0087378_5481685.jpg

  内堀

 散歩したのは、一泊した次の日の朝、ここを訪れるのが目的ではなかったので、デジカメを持って行かなかった。携帯で数枚撮った写真を張り付けた。
by shingen1948 | 2009-08-25 05:56 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)