人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

神指城跡⑦~散歩を終えて③

 22日には桑折町の「西山城」研地説明会があり、23日には本宮市の「庚申壇古墳」現地説明会があった。そのことも整理したいが、神指城跡散歩とかかわって、向羽黒山に出かけたことも関連させておきたい。
a0087378_5324722.jpg
 石田氏は、「戦国を駆け抜けた智将」直江兼続とふくしま⑯(福島民報)で、籠城戦と想定した最後の砦は神指城ではなく、向羽黒山としている。その根拠として、景勝が神指城築城より先にここを大改修していることを挙げる。
 この城は、永禄11年(1568)に葦名盛氏が築き、歴代葦名氏、伊達氏、蒲生氏も会津に入るとまず最初に、最後の砦としてここを先に改修している。

 ここは先に、「〈磨上原の合戦〉の政宗」 ・ 「向羽黒山城②」  ・ 「向羽黒山城③」 ・ 「向羽黒山城④と南山通り」の4回に分けて整理しているが、地形が複雑で、散歩の途中ではなかなか捉えられないことがあった。


a0087378_5404271.jpg
 今はどうなのか分からないが、昨年はこの城としての案内板は、向羽黒山城②に掲げたように禿げていてよく分からない状態であった。


a0087378_5484920.jpg
 氏は、ここの予想する縄張り図を描いている。
 阿賀川に面し、面積50ha北側の10日町口が大手口、西の3日町口が搦め手口のこの城は、南側の尾根とは堀切区画され容易に攻められない。
 大手口となる10日町口には、馬出し(伝盛氏屋敷)が設けられ、北側の水田には外構えという土塁と堀で囲まれた部分があったという。
 氏は、本丸は狭いので見張り用の櫓や小屋が置かれていたと想定する。その下に景勝、二の丸に直江兼続が入り、周囲に水の手や家臣団を配置すると考えられる。
 家康の上杉討伐では、山田孫左衛門ら約1000人が常駐、大沼郡を預かる奉行の山田喜右衛門が拠点にしていたと考えられるとする。

 伊達氏との関連で訪ねた安島城や向羽黒山城は、そのまま「天地人」の時代に延長して関連付けて考えることができると教えてくれる。地道に歴史の跡を訪ね歩くと、単に歩いたところが増えていくということではなく、関連しあって、それらが絡み合って歴史を紡いでいくということが分かった気がしている。
 
 歴史で「もしも、……」というのはよくないらしいが、歴史上の人物たちは、それらを想定して整備を進めているはずでもあるとも思う。
by shingen1948 | 2009-08-24 05:55 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)