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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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神指城跡⑥~散歩を終えて②

 神指城―「天地人」ということにかかわって、直江兼続が、司令を出していたのは、安子ケ島城ではないかと仮定する記事を見つけた。「福島民報」2009/8/2/「直江兼続と安子島」(高橋明)と題する記事だ。
 直江兼続は、ここ浅香城を総司令部として、ここから白河方面の司令部である長沼城、信達の拠点である福島城、越後方面の機能を担う若松城を指揮していたと見る。
慶長5年(1600)
 7月22日 兼続浅香城に入る。
 7月23日 家康小山で、三成、大谷吉継の謀反の企てを鎮定する要請内容の豊臣三奉行連署の書状を受け取る。義光に、攻撃の中止を命ずる急使を発し、上方の大名に近日上洛を知らせる。
 7月24日 伊達政宗白石城を攻め落とす。
 8月 8日 兼続、米沢城に使者を出し、道筋の駅・宿に継送りを命ずる伝馬手形を発行する。この送り先の最初の町が五百川浅瀬の渡河点・分岐点である横川であることが、浅香城=安子島城の根拠のようだ。
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 安子ケ島城について、先に整理した時には、伊達政宗が会津へ攻め上る時に最初に標的にした不幸な城としてのイメージでまとめた。それは、実際の城跡も跡かたもなく消えているという現状とも似合っていた。
 
 現在、城址碑の建つ場所は、田んぼでしかなく城の痕跡は何もなかった。
 これは耕地整理によるものであるのは直ぐに分かる。かつては東西に曲輪を並べた連郭式の城であったらしい。安子ケ島小学校あたりも城郭の一部で、主要部は安子ケ島小学校の西側の田んぼらしいとも聞いた。
 この城址碑の建つあたりは堀らしいとも聞く。
 城主の安子島氏は、文治五年(1189)頼朝の奥州征伐で功があって、この地を領土に得た工藤祐経の子孫で、安積郡に勢力を張った安積伊東氏の一族である。
 伊東一族は結束できないまま、戦国大名には成長できず、畠山氏や葦名氏にしたがっていたようである。
 先に整理したように、天正14年(1586)二本松城の畠山氏を滅ぼした伊達政宗は、天正17年(1589)には会津への侵略を開始する。
 中通りから会津への通路となるこの安子島城が真っ先に標的となり、伊達氏の軍に囲まれた安子島治部省輔らは、防衛を諦め開城し、会津に退去し廃城になったという。


 それを、天地人の視点から「伊達政宗が会津へ攻め上る時に最初に標的にしたことや、会津から仙道(中通り)に進出する際に、最初に標的にしたことの意味することに着目すれば、ここが会津と仙道を結ぶ重要な地点である根拠になるということだ。言われてみれば当たり前だが、新たな視点の持ち方を教えられた。
 なお、その見方からは、この安子島城は、その仙道の中心地点でもあるということだ。

 今回の神指城の散歩は心地よい。
 同乗者に遠慮しながらの散歩になると思っていのが、結果的にその遠慮がかえってこの地区に住む人々との思いを感じる方策になっていたということがある。
 自分がそこで感じることを大切にしたい。そのためには、事前に調べつくすことによって、自分の目を曇らすことはあえてしない。それで、見落とすことがあれば、もう一度訪れればいい。それが基本的な散歩の構えだ。
 だから、事後に自分が見えたことに対する根拠が与えられたり、新たなことが分かったりするというふうに、イメージが膨らんでいくのがいい。
by shingen1948 | 2009-08-23 05:37 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)