地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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神指城跡⑤~散歩を終えて

 二の丸の四隅の想定は、想像して散歩していたのだが、その想定は違っていなかったようだ。
 「中世会津の風景」(柳原敏昭・飯村 均)に、次のような紹介をみつけた。
 
二の丸の大半は、昭和42年の圃場整備によって失われている。この時、地元の意向により二の丸北西隅・北東隅・南東隅と如来堂集落に接する南外郭線の一部が削平を免れた。

 散歩にかかわる情報としては、次のようなことが参考になった。
 ○ 築城人足は、会津4郡・仙道7郡・長井、刈田、庄内から8万人(一説には12万人)
 ○ 平成2年の福島県調査成果では、二の丸と本丸をつなぐ土橋検出・本丸北東隅の石段確認・城の大き さ、堀の確認とのこと。
  ・ 外堀幅44m深さ1.4~2m、本丸堀幅55m深さ1.2m
  ・ 本丸北東隅5~6mの比高差で櫓台の可能性
  ・ 外堀には、水が入っていた可能性あり
  ・ 二の丸石垣はなし、建物もなし。
  ・ 土橋跡は30mで本丸堀は未完であった可能性が高い。

 本丸に案内板を設置頂いて助かったのだが、この案内は、この時の調査が元になっているようだということが分かる。


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 今回の散歩は、家人に妥協したつもりだったが、結果的には村の方が是非残したいと考えた風景を感じながら歩いていたということになった。そういう意味で、本当は没にしようと思っていたこの神社の写真を貼り付けておく。
 だだっ広い田園風景の中に、ポツンとある神社だ。昭和42年の圃場整備時に、村の人が是非ここは残したいと考えたに違いないと思うからだ。

 さて、神指城の築城についてだが、家康が言い掛りをつけ、それにたいする反論が、「直江状」なので、築城理由もそのことと関連して見がちだが、そうではないらしい。
 家康は小山会議で石田三成らの征伐を決意し、軍を江戸に返したので、会津が戦場になることはなかった。しかし、家康は小山まで軍を進め、白石城を伊達政宗が攻め落としている。そのまま戦いが進んだら、……という思いが起きる。それでも、この城が最後の砦ではないらしい。
 「福島民報」の石田氏「戦国を駆け抜けた智将」直江兼続とふくしま⑯によると、籠城戦と想定した最後の砦は向羽黒山とのことだ。
 
 神指城築城を急いだ理由について気になる。案内板では、城郭建設地としてこの地が選ばれた理由しかない。(若松城が会津盆地の東南隅に位置することから城や城下町の拡張が難しかったのに対し、盆地の中心で平坦なため、築城地としててきしていたためと考えられますと述べている。)
 そのことについて、「中世会津の風景」の視点のうち、次の三つに説得力を感じた。
① 越後商人の活躍の場の確保
② 家祖謙信公廟の整備
③ 防衛支城の整備


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 このうちの②については、米沢城との比較、そして、謙信公23回忌の実施などからの推定しているようだ。
 米沢城では、本丸に謙信廟を整備し、寺院群を二の丸南東隅に真言の寺20の寺院群を配置しているという。これは、本当は神指城で最初にやらなければならないと考えたことだというのだ。
 ③ にかかわっては、上杉氏が与えられた領地が、佐渡・庄内・置玉・会津・仙道であり、旧領は佐渡と庄内のみだという事情とかかわって説明する。庄内と置玉の間に最上義光が、仙道の奥には伊達が控えている。
 上杉にとっては交通網の整備とともに防衛支城整備が必要だったとする。これは、直江状の通りということだ。


 「天地人」の物語も含めて主観的に考えれば、上杉が本当に言いたかったのは、誰が見ても不義は徳川家康にあり、義を持った陸奥に確たる王国を築きあげるには、弱点を解消し四面楚歌になることを避ける対策としてもこの城が必要だっということか。
 実際の物語の展開はどういう風にするのかな。
by shingen1948 | 2009-08-22 05:16 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)