地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

神指城跡④~二の丸南側

a0087378_5193033.jpg
 ここは、神指城築城あるいは廃城の270年後の戊辰戦争の時にタイムスリップして、「新撰組殉難の地」として案内される。
 位置的に、ここは神指城二の丸土塁とかかわると思うのだが、特にその案内はなく、案内板は、新撰組隊士が守備した如来堂として説明する。
 ここを新政府軍が奇襲攻撃し、城を新撰組が守るという構図のようだ。


 如来堂
a0087378_5213345.jpg
 慶応4年<明治元年>(1868)9月4日、山口次郎こと斎藤一ら新撰組隊士が守備したここ如来堂が、新政府軍によって襲われ、隊士が全滅したとされる場所である。
 近藤勇亡き後、会津に入った土方歳三率いる新撰組は母成峠防衛の任となるが、西軍の攻撃の前に敗退した。庄内へ援軍を求めて会津を離れようとする土方に対し、山口は会津藩主松平容保への恩義から「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と、会津に残留して徹底抗戦を主張した。
 会津を去った土方とは対照的に、山口は、20名(10数名とも言われている)ばかりの隊士とともにこの地に宿陣していたが、西軍の襲撃を受けて全滅したとされている。しかし、数名の隊士が乱戦の中を脱出し、生存していた。
 ここ会津で隊長として新撰組を率いた山口においては会津藩が降伏開城した後、隊士とともに斗南藩に移り、苦汁をともにしたのち、大正の世まで生き抜いたのであった。

 ここでいう山口という方である斎藤一氏の墓は、阿弥陀寺にあったはずと思いだす。ただ、阿弥陀寺は、戊辰戦争の非情さの象徴を訪ねる として、会津藩戦死者の墓を中心に整理していた。
 西軍は、死体を放置するように命じ、さわることを許されなかったという。幾度もの懇願でやっと埋葬が許可された墓だ。ワイドショーで、今でも戊辰戦争に関わる西軍の恨みが語り継がれていることを面白可笑しく伝えていたが、単純な敵対関係というだけでなく、こういった事実を知っている人は、100年経っても許せない感情が残ることだろう。
a0087378_526207.jpg
 この時は触れなかったが、この墓が左手前で、御三階の間に案内板が見えるが、ここがこの方の墓のはずだ。


 神指城に戻る。
a0087378_528544.jpg
 この如来堂の奥が、一段高くなっていて、そこが八幡神社になっている。ここらあたりが、二の丸南西土塁あたりと想像する。


a0087378_536143.jpg
 この地区の方にとっては、ごく当たり前の風景なのだろう。ここにも銀杏の大木が、何も語らずに立っている。


a0087378_5315638.jpg
 帰りがてら、南東土塁でないのかなと思う所を通って市内に戻る。この脇の水路あたりを堀と推定すれば、阿賀野川の水を引きおえれば、ここは水堀になったはずだと勝手に想像する。
by shingen1948 | 2009-08-21 05:40 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)